スキマハウス (小峰の個人ブログになりそう)

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【哲学文献まとめるよ!】 カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』

【哲学文献まとめるよ!】
 
第一章 第二節 精神の絶対的形式の歴史的終結という構想
 
 前節では、世界史と精神史がフランス革命において完成し終わるということを見た。
 本節では、その完成と終結が、どのように精神の形式(芸術、宗教、哲学)のあり方を規定するのか述べている。
 まず、芸術について。芸術は、芸術の外の不運な出来事によって終わるのではなく、芸術の進展が芸術を終わらせるのだ。内面的なほの暗い部分がすべて外部に表現されつくされ、人々も芸術にとうとう関心を失ってしまうというのが、芸術の終わりという事態なのだ。もし私たちが芸術が持っている「世界への見方の本質的な部分」をもう一度取り上げたいという欲求を持つのは、それはたとえばセルバンテスが『ドン・キホーテにおいて騎士道に逆らおうとしたときなど、その「世界への見方の本質的な部分」に抵抗し、逆らおうとするときだけなのだ。
 だが、もはやヘーゲルの時代にあっては、長い歴史の中で教養という批判的反省能力が形成されたので、芸術の迫力を生み出す形式が相対化されている。人々はすでに何もかも知っているのだ。「ホメロスソフォクレスも、ダンテもシェークスピアも現れることはありえない。「かくも荘重に歌われ、かくも自由に語り出されたことどもは、すでに語り出されてしまった。歌われた素材、この素材を観たり、受け入れたりする仕方、これらはすべて歌われてしまったのである」」。しかも、芸術は無意味化されており、「聖画を見て父なる神、キリスト、マリアが威厳にふさわしく完璧に描かれていると感じるかもしれない。しかし、いかに強くそう思おうとも、われわれは、そうした像の前に跪くことはもはやないのだ」。
 だが、事態は芸術への人々の関心がなくなったということに終わらない。「芸術という形式そのものが、精神の最高の欲求であることを停止したのである。芸術はわれわれにとってもはや、真理が現実に存在するための最高のあり方ではなくなってしまったのだ」。重要なのは、(力が働く)現在である。カトリックなどの過ぎ去った古い世界観を習得しても無駄であり、むしろ芸術は自らを乗り越えていって、特定の形式や内容へのとらわれを捨て去っていくなかで、終結目的)へと至るのである。そして、それを体現する人間は自分が馴 染む一切のものを、自由な芸術の対象としうるのである。
 次に宗教について。宗教も終わってしまった。なぜなら、宗教もまた芸術と同様に精神が住まう場所ではなくなったからだ。ローマ末期に、(宗教をつかさどる)理性が私利私益と私法に堕落し、宗教的・政治的生活がなくなってしまった。「このような時代の個人というのは、普遍的なもの(政治や社会全般のありよう)は、なすがままに放っておき、自分の利益の事だけ考えるようになる」。残るのは、道徳的な見方、すなわち一人一人の意見であって、内実がない。そのような時代には、信仰を概念化(哲学化)することが求められている。なぜなら、宗教を守るべき人々がキリスト教の真理を「道徳的な動機」や「歴史的観点」からだけ論じるようになってしまい、一意見に終わっているからだ。聖職者は普遍的なものを再興するかたちで概念化することもないので、民衆を教育することができないのだ。その代りに、哲学が真理を司るのである。
 芸術と同様に、宗教にも批判的反省(哲学)が侵入してきた。この批判的反省は最後の最後まで遂行される。この反省を前にして宗教は自己の正しさを証明する必要に迫られるのだ。そして、芸術は芸術哲学、宗教は宗教哲学となった。「こうして哲学において、芸術と宗教が持つ二つの側面、つまり芸術という客観性と、宗教という主観性が統一されることになるのだ」。芸術は外的感覚性を失うが、それによって、思想という最高の客観性を持つことになる。一方、宗教は思考という主観性に純化される。それが哲学なのだ。