スキマハウス (小峰の個人ブログになりそう)

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【哲学文献まとめるよ!】

まとめる文献:カール・レーヴィットヘーゲルからニーチェへ』

目標:ヘーゲルからヘーゲル左派、そしてマルクスキルケゴール)へと続く哲学史の流れを理解すること。

日時:18/4/7

 

 今回は、カール・レーヴィット著の『ヘーゲルからニーチェへ』という本のうち、第一章「ヘーゲルにおける世界史と精神史の完成――歴史の終結」をまとめます。この章は、ヘーゲル左派やマルクスの思考の基盤となるところです。(以下引用はすべてレーヴィット

 

  • 基礎概念としての「世界精神」

ヘーゲルにとって哲学の歴史は、世界の動きを横目にみて進む、世界とは無縁な別のできごとではない」とレーヴィットはこの文章を始める。要するに、哲学の歴史と世界の歴史は並行し重なり合っているということだ。では、どういうところに共通点があるのだろうか。ヘーゲルは「世界精神としての絶対者」が両者の歴史には貫かれていると述べている。ヘーゲルの中心概念だが、ここでの「世界精神」とはなんだろうか。『ヘーゲル辞典』を見てみよう。『辞典』によると「世界精神」とは「論理、自然、精神の体系全体を貫く根源的な実在」であり、「世界のうちに自己を現す」とされているものだそうである。しかし、よくわからない。が、ヘーゲルにとって、哲学の歴史と世界の歴史は「世界精神としての絶対者」が自らを実現していく過程だということはわかりそうだ。もう少し先に進もう。

 レーヴィットは、この「世界精神」が「歴史にそなわる、いかなる条件もない絶対的な力」だとしている。そして、おそらくこの「力」はさまざまな矛盾や対立を乗り越えて統一していく力なのだ。なぜ、そんなことが言えるのか。レーヴィットは矛盾や対立などと言う言葉はまだ述べていないのに。しかし、「世界精神」は、いかなる民族においても「生の全体性」を表現しているとレーヴィットは述べており、『辞典』によるとその「全体性」なるものは次のようなものだからだ。ヘーゲルにおいては、「矛盾と対立はある「ひとつのもの」(絶対者)の異なる現れ」である。したがって、全体性とは、「部分や区分を内包した全体で、対立や矛盾の統一」のことである。要するに、「世界精神」はさまざまな歴史の中で生じる矛盾や対立を統一していく「力」でもあるのだ。

 この「世界精神」という「力」の「弁証法的運動」は歴史の中で生きている。ここでの「弁証的運動」とは『辞典』によれば、「実在する対立・矛盾を原動力として変化・発展する事物の論理」に基づく「運動」のことであり、その「運動」の行き着く先は「絶対知」である。  

この「絶対知」とは、『辞典』によると、「存在と思惟の一致」のことであり、それはどんな状態かと言うと、『辞典』によると、「存在と思惟の一致」は、「実体と主体の一致」と同じである、という。「実体と主体の一致」とは、自分が生きる世界をただすでにあったもの・与えられたもの(実体)ととらえずに、さまざまな人々の活動のなかで発展していくものとして把握し(主体)、しかも世界を普遍性(人権宣言など!)に即して形成していくことである(実体と主体の一致)。要するに、「世界精神」は人々の種々の活動によってさまざまな矛盾や対立を乗り越えて発展し、最終的に「普遍性に即して形成」された世界へといきつくのだ。それはたとえば、フランス革命の人権宣言などによって果たされたと見る。

そして、どのようにして「世界精神」は「絶対知」に行きつくかというと、(外面的には人々の様々な活動ということになっているが、)内面的には「かつて存在した精神のあり方をすべて想起すること」によってである。つまり、「たえず前進する中で自己を外部に表現しながら、また自己自身の由来・過去を想起するのが、この精神のあり方」なのだ。しかし、その発展も決して直線的なものではない。円環状になっており、「この運動の終結は運動の始まりの完成」なのであり、これが何を意味するのかと言うと、「終末における終結」である。

 

ヘーゲルは歴史の中で「世界精神」は発展するというのだから、もちろん歴史哲学がある。ヘーゲルの歴史哲学において重要なのは、「東洋における歴史の始まりであり、西洋におけるその終結である」。ヘーゲルの中では、まず中国、インド、ペルシャで精神(歴史)は始まり、ペルシャに対するギリシアの勝利を経て、ローマ帝国において継続し、最後は西洋北部のキリスト教的=ゲルマン的諸国家において終結するのだ。この歴史の運動の中で、「精神は激しい戦いを通じて、自由へと教育されてきた」。つまり、「オリエントは、たったひとりだけが自由であると認めていたし、そう考えている。ギリシア及びローマの世界では、幾人かが自由であり、ゲルマン世界は、すべての人が自由であることを知っている」(ヘーゲル)。

 キリスト教の神こそが、はじめて真に「精神」であり、人間なのだ。「これによって、神的なるものと人間的なものとの統一性がようやく意識にもたらされ、神の似姿としての人間に宥和が生じた」。フランス革命とは、万人が自由であるとしたキリスト教の原理を世俗化したものであり、キリスト教を理性化したものである。しかし、これは厭うべきことではない。「キリスト教の起源を実定的に見えるかたちに実現することこそ、起源の真の展開なのである」。

ヘーゲルから見れば、教皇の権威から人々を解き放ったのがルターだった。そしてその前提に基づいてフランス革命がおこる。そして、このフランス革命のできごとにおいて、歴史の哲学が終結する。もちろん、さまざまな出来事もあるだろうし戦争もあるだろう。だが、フランス革命の〈概念〉を記述したヘーゲルによって、〈概念〉の歴史は終結した。