スキマハウス 新入居者募集!!(12月~)

大阪大学のふもと、石橋にスキマ寮を作りました。定住者だけでなく、誰でも使えるシェアハウスです。 いつでも来て、寝たり食べたり飲んだり話したりしてください。イベントや読書会あるいは、秘密結社の儀式など、なんにでもお貸しできます。興味がある方はいまそこでただちにお問い合わせください。(お茶しよっか。)連絡をもらえれば、誰にでも鍵のありかをお教えします。勝手に入っちゃってください。ishibashisharenokai@gmail.comまで連絡を!〒563-0032 大阪府池田市石橋1-21-10

オルタナティブ運動と労働運動

オルタナティブ運動と労働運動〉

朝から酒を飲んでいる。この文章を書くためだ。いまから大事なことをやっつけで書くけれども、それは急いでいるためである。(三日前には書いたのに、データが保存されてなかったんだ)。だから、どうか気にしないでほしい。何を? 何もかも。

 さて、おれはケチだ。(三日前の冒頭もこう始まった)。国産のものなんてめったに買わない。中国製、バングラディシュ製、ベトナム製、グローバリズムの恩恵にさずかっている。なんでだろうか。金がないからだ。貧乏で金がない。金が稼げる見込みもない。そこそこ収入が今はあったとしても、いつどうなるかわからない。だから、安く済ませてしまう。この世界(大阪ね)で安いものを買うとは「庶民的」であることで、それ自体称揚されていることだ。だから、飲む酒もジムビームである。

 まあ、だからといって、おれが安いものを買うことに罪意識を感じていないわけではないのだ。後進国から巻き上げた商品で生活している。それが後進国に人々を苦しめている。おれの箸を作る工場を建てるために、中国の村落が一つつぶされたのかもしれない。おれのエビを養う池ために、タイの森が切り崩されたのだろう。俺の友達がフィリピンで言われたらしい。

 

「ここの海の魚は、あるとき日本人が全部獲っていってしまったから、もういない。お前、それについてどう思う?」

 

きっと安く売りさばかれんだろうなあ、その魚。後進国の人々の生活を切り崩して、おれたちの貧乏生活は成り立っている。

 

 だから、なんというか、オルタナティブだとか、働かないでたらふく食べたいとか、国民に怠ける権利を!とか、おれも望まないわけじゃないんだけどさ、そのあえて選び取った貧しさの下にも抑圧されている人々がいるのわかる?

「わかんないよ」

「なんで?」

「見えないもん」

バーカ。考えればわかるだろうが。テレビもあるんだしさ。

 レヴィンスなんかを引用して、適当に哲学の入門書を引っ張り出して「相手の苦痛に捻じ曲げられた顔を見たとき、私たちには責任が問われる」とか「他人が苦しんでいるのを見て、じぶんも苦しむのだ」とか言って、身近な人間関係だけに対して「倫理」的であろうとする「ええやつ」(お前のことだよ)に聞きたいんだけど、じゃあ、おれたちがテレビで見る後進国の人々の悲惨な表情はどうなるんだね? あれも顔じゃないのかね? あそこからも責任が問われてるんじゃないのかね? それを棚上げして、身の回りの人々との人間関係を現象学やらやら哲学やらびっっしゃー使ってうんぬんかんぬんしても、だれが聴くんかねそんなもの。ジャーナリストの懸命な仕事に応えてやれよ。戦場カメラマンがどうして顔を映すのか考えてみろよ。

 

 おれが高校の頃に吹奏楽部だったとき、顧問の先生にこういわれたことがある。

「一番遠くの楽器の音が聴こえるように吹きなさい」

これと同じことだ。おれたちが生きるときは、世界の遠くの人々の声に応えられるように生きなければならないのだ。おれたちには見えない、だがおれたちに苦しめられている人々の方から考えなければならないのだ。〈外部〉から考えよ!ってね。

 でも、残念だが、おれたちがいますぐ中国抜き、バングラディシュ抜き、タイ抜き、ジャパン、ドイチュ、フレンチ、アメリカンオンリーで暮らしていけるかというと、それは無理だね。だって、金がないもん、金が。金がないんだよ! つまり、貧困なのは後進国の大部分だけではない。先進国の大部分も貧困なのだ。おれたちは九十九%なのだから。

そして、先進国の貧困層は国産やらドイツ産やらが買えない。いいものが買えない。すると、フィリピンに頼ることになる。先進国の貧困(相対的貧困)は後進国の貧困(絶対定期貧困)とつながっている。だから、おれたちは豊かにならなければならない。おれたちは豊かになる責任がある。(金があっても、買うかどうかはわからんがね。でも、金があるというのは前提条件だ)。

 だが、間違えるな。これは断じておれが豊かになる必要があると言っているわけではない。おれが、ではない。おれたちが、である。みんなが、である。金を稼げるようにしろ。ただし、おれが、ではなく、おれたちみんなが、である。

 正社員になってバンバン働いて金を稼いでやろうぜ!とはならない、なってはならない理由がここにある。おれだけが国産を買えるようになっても意味がないのだ。世界にとって無意味なのだ、それは。(もちろん、豊かな人々は日本の工場を潰さない、技術を伝承するという理由によって、国産のものを買ってもらう必要がある)。みんなが豊かになるように動かなければ、おれたちは遠い世界の人々に何も応答したことにはならない。

 

 そこで、労働組合というものが登場する。一部の人々がお金を巻き上げるのではなく、利益を得るのではなく、末端労働者にもお金と利益の分配を!と訴える倫理的な必要性がある。このとき、必要な労働組合産業別労働組合だ。いまの日本は企業別に労働組合が主だけれども、組織率の低いこと低いこと。しかも、弱いだろう。そもそも企業別労働組合は、その企業がなくなってしまえばつぶれてしまう。しかも、自社の労働者の待遇だけを改善すると、他の同業企業に競争で負けてしまうかもしれないから、改善したくてもできない。たとえば、エヌ社だけ時給を二千円にしても、他の同業の会社が時給八百円のままだと、どうしてもエヌ社の商品は高くなり、売れなくなってつぶれてしまう。企業別労働組合は弱い。(単純に考えればね)。

 だから、業界まるごとの労働組合を作らないといけないね。最終的にはインターナショナルじゃないといけないけど、まずはナショナル(国内)から。ある業界みんなで一斉に待遇改善、これが必要だ。金を稼ごう、金を。やっぱ、金っしょ、金。

 そういうと、「お前これまで、貧乏でも生きていける生活を!って言ってきたじゃねえか。一貫性がないぞ」と脅されそうだ。たしかに、おれは、貧乏でも生きていける生活を!って言ってきた。だが、それは豊かに生きていくためだ。これから貧乏になっていく。だからこそ、貧困対策が必要なんだと言ってきた。そして、だれも抑圧しない形を目指す。だから、労働組合が必要だ、地域社会が必要だ、協同組合も必要だと言ってきた。

 協同組合! これはおれが先に書いた文章の中心となる主題のひとつだった。労働者みんなで出資して作る企業。経営者が労働者を搾取することを防ぐための企業組織だ。

 だが、これにも難点がある。競争社会の中に協同組合という企業体がある以上、協同組合は他の企業と競争せねばならず、キリキリ切り詰めを強いられる。たとえば、他の会社が労働者にあほみたいに働かせてブラック企業化したとしよう。そうすると、協同組合は競争に勝つために、労働者を安く働かせる必要が出てくる。商品やサービスの値段を他企業が(労働者の搾取によって)安くしたら、協同組合も(会議の合意に基き、じぶんたちの給料を下げるというかたちで)安くしなければならない。

協同組合のあり方は、他企業のあり方に規定されるのだ。だから、労働組合によって、その業界全体の労働者の待遇を改善しなければならない。搾取を防がねばならない。革命運動(オルタナティブ運動)と労働運動は緊密に重なり合ったセットなのだ。労働運動をせず、働かないでたらふく食べたいなどというのは、たわごとに過ぎない。社会の中に生きている以上、社会が変わらなければ、おれたちも変わらない。

 

「おいおいおいおい」と待ったが入った。

「そんなでかいこと言っても、お前の身の回りのものは中国産ばっかりだ」と言ってくる。

たしかに、そうだ。おれはベトナム産の服、中国産の皿、フィリピン産のお菓子、後進国のものに満ち溢れて生活している。これは改めるべきことだ。だが、やる気が起こらない。

 

だって、お金ないもーん。

 

 おれはなけなしの金で国産のものを買って、あーこれで世界が少しだけ平和になったとうっとりしたいわけではない。そんなものおれひとりが買ったところで何になるというのか。その金は労働者から搾取したものではないか。その国産品の購入は幾多の中国産品の購入によって支えられているのだ。それゆえ、みんなで豊かになるには、構造を変えなければならない。

おれは自分自身を変えたいわけではない。おれは社会を変えたいのだ。社会を変える活動を少しでもすることで、見えないし会うこともない遠いバングラディシュの人々の問いただしに応えたい。「お前の国が俺の村をつぶしたのだ」という問いただしに冷や汗をかきながら、ごえんなさい。いや、でも、しかし……しかしですね、日本で私はこういう活動をやっておりまして、……へえ、そうなんですよ、へえ……(I am sorry. But,bu,but……but! In japan I do the activities which blablabla……yeah,ye,yes! Heee……)と、しどろもどろながら応えられるように。

言行一致のために国産のものを買わなければならない、にもかかわらず、おれは国産のものを買いたいとは思わない。この分裂のまま生きていこうか。この分裂のなかに、問いただしが生じているのだから。国産品を買うことで、その問いただしに自分だけ目をつむることをしたくはない。

 では、いつおれが国産品のものを買うのか。それは、自ら書いたこの文章に影響された欲望によってではなく、一消費者としての自分の欲望から、国産品を買いたいと思ったときである。活動家としてのおれではなく、生活者としてのおれが買いたいと思ったときである。そもそもおれはケチだ。金もない。健康に気を使いもしない。早めに死にたいと願っている。だから、からだと自然にやさしい有機野菜なんて買わない。倫理よりも欲望を優先しがちだ。フィリピンのバナナ?買う。タイのエビ?買う。安いから。誰かに買われるんだったら

おれが買うわ。ここでフィリピンのバナナを買うのを我慢するという抵抗がいかほどのものか。それで、社会が変わるのか? 変わるなら、我慢なんてなんぼでもしてやるよというスタンス。

だが、そんなおれが変わるときが来るかもしれない。おれが変わるときは、おれだけが買うのではなく、みんなと同じようにおれも買うときだ。じぶんが変わるのではなく、社会を変えることで、その一員であるじぶんも変わるという選択をえらぶ。我慢する倫理的に正しい窮屈さよりも、変革を予感させる途方もない荒野と地平線を選ぶ。「庶民派」の実感を失ったら最後、労働運動は現実から遊離すると思うのだ。(独善的かな?)

 

まあ、こんなところかね。そういえば、あの神戸が生んだカリスマ社会運動家賀川豊彦が自伝的小説のなかで叫んだそうじゃないか。

 

「おれは日本へ帰って労働組合からはじめる!」