スキマハウス 新入居者募集!!(12月~)

大阪大学のふもと、石橋にスキマ寮を作りました。定住者だけでなく、誰でも使えるシェアハウスです。 いつでも来て、寝たり食べたり飲んだり話したりしてください。イベントや読書会あるいは、秘密結社の儀式など、なんにでもお貸しできます。興味がある方はいまそこでただちにお問い合わせください。(お茶しよっか。)連絡をもらえれば、誰にでも鍵のありかをお教えします。勝手に入っちゃってください。ishibashisharenokai@gmail.comまで連絡を!〒563-0032 大阪府池田市石橋1-21-10

暗い未来について もっと具体的に。

もっと具体的な話を。
実は、僕は「オルタナティブ派は拡大成長しなければならない」と思っている。その理由を。

僕が企業組合あうんとか素人の乱をみならって「リサイクルショップをしたい」というと、いろいろな人から怪訝な顔をされる。
いやいや、できるのか?って。僕も思う。できるのか?って。

信頼すべき批判者からは「極めて困難だ」と言われた。続いて「極めた困難なだけだ」とも言われたが。でも、「極めて困難だ」ということは、いまはやめとけってことだ。(いまは、ね)。

ということで、「リサイクルショップをしたい」と言っても、現実味がない。つまり、稼げる見通しが立たない。

稼げる見通しが立たないというのは、とっても重要なことだ。
まず、人が集まらない。稼げる見通しがなくても、集まる人というのは、かなり変わり者。ほとんどいない。大阪では難しい。(東京や京都の「若者」ならできるかもね)。

なぜ、見通しが立たないかというと、他のリサイクルショップと争って勝てるほどの専門性がいまのところないからだ。リサイクルショップで働いてはいるが、かといって、二年後に起業して勝てるかというと、リサイクルショップでは難しい。

なら、どうするかというと、勝てるような職種に変えるしかない。
たとえば、塾の経営とか。(幸い、身近にやってる人が何人もいる)。

だが、塾の講師には専門性がいる。
つまり、勉強を教えるだけの力がなければならない。
誰でもできることではない。
専門性が高い人間だけができることだ。
言い換えれば、専門性の低い人間にはできない。
つまり、職に困っている人に手を差し伸べることができない。
明治昭和ならいざ知らず、これじゃ、この時代に起業する意味なんてない。

といっても、塾は決して講師だけで成り立っているわけではない。
事務に掃除にチラシ配りにとさまざまな業務があるだろう。
そのようなことは専門性がなくてもできる。
ここがポイントだ。

専門性がある人間は専門性がある仕事を、
専門性がない人間は専門性がない仕事を。

予備校でひげもじゃ白髪の先生(吉田師)が言ってたな。
「若者に仕事がない。でも、老人が放置自転車の見回りをしている。それじゃ、若者は老人の仕事を奪えといっていいのか。いや、そうじゃない。若者には若者の、老人には老人の仕事がある」。
(師は、そういえば、僕が初めて会った1968世代でもある)。

専門性のある人間が市場を開拓して稼ぎ、専門性のない人間がそれを支える。
とすると、仕事の優劣で不平等が生まれるんじゃないだろうか。専門性の高いやつが低いやつを見くびるとか、痛めつけるとか。
そういうこともなくはない。いや、あるだろう。しかし、そうはいっても村落共同体は各自適した役割を、というかたちで動いていたわけで。少なくとも、あからさまに不平等があるいまの働き方よりはましかと・・・。(非正規は非正規という理由でバカにされるから)

まあ、こういうワークシェアっぽい考え方(なのかな?)が必要だ。

でも、これは採算度外視だ。

ふつう、チラシ配りもなんでも専門性の低いものは非正規に任してしまうが、そこを正規並みの組合員に任せなきゃ、この時代、(何度も言うけど)起業する意味なんてないな。

(非正規使って企業したら悪いなんて言ってるんじゃない。そんな高度な次元まで達してはいない。僕はそういう企業は良い悪い以前に、無意味だって言ってるのだ。お前の会社なんて、この時代に、あってもなくても一緒なんだよ、ってね。まあまあすごいけど、ぜんぜんおもしろくねえよって)。

と、まあ、そういうことを考えているのです。実際に、できるかどうかはわからないけれど、とりあえず、そういうことを考えるのです。

ところで、最近、ファシズムのことについて考えている。
あべとかじゃないよ、ファシズムだよ。思想統制くらいの意味合いだろうか。

どんな企業であれ、企業は基本的に少しばかり(あるいはものすごく)思想統制を行う。僕の友人はダイ〇ンという会社に入ったらしいが、最初の研修で自己啓発セミナーが発している思想を強要されたらしい。拡大成長という観念への統制。企業にとって思想統制が「生き残り」の道ならば、そうなるわけだ。

アメリカやらイギリスやらがファシズムに陥らなかったと言い、日本やらドイツやらがファシズムに陥ったというもの言いを信じるならば、それは「生存競争」において「生き残る」ための「技術」があったかどうかだ。アメリカには技術があり、日本には技術がなかった。そこから暴力を伴う思想と精神の統制が生まれる。天皇制がいやだやら風土がよくないやらのやわな次元の話なのか?

つまり、企業であれ国家であれ、ある共同体の「生き残り」が迫られているところで、「生き残る」ための技術がないとき、共同体は思想まで統制して構成員を決して逃げないようにし、ひたすら働かせようとする。共同体やその首領が「生き残る」ためだ。共同体の首領や中心は、その共同体がなければ生き残れない。

そうして、「生き残る」ための統制は「信仰」の次元にまで高められさえする。

「山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰は要らない」

というエリックホッファーはおそらく正しい。(彼はファシズムの時代を生き、最初の著書は『大衆運動』だ。)

それゆえ、ベンチャー企業などは一種、宗教的な側面を帯びることもある。「この先に約束の国が・・・」と。(ソ連の場合は、「この先に真の共産主義が・・・」というところかな)。

それ自体は悪いことではない。はじめはやはり、そういう「信仰」に頼る期間がなければ、何も生み出せないというのは事実だろう。
と同時に、その稼ぐ「技術」が体得されるにしたがって、「信仰」からは徐々に解放されていくべきなのだ。

「稼ぐ技術があるところでは、稼ぐ信仰は要らない」ということになる。

でも、この世界がとっても悲しいのは、その「技術」さえも拡大成長「信仰」を生み出すために動員されていることである。「技術」があるところでは、人間は解放されるはずであったのに、その「技術」に「革新」の二文字が加えられると、これはもう、どうしようもないほどの狂気を誘う。

つまり、「技術」を開発して他人や他社を稼ぐことができても、その他人や他社が新たな「技術」を開発して自分たちの取り分を奪うのではないかという恐怖があるため、ただ、ひたすらに「技術」の「革新」(すなわち、イノベーション)が求められるのだ。国も会社も拡大成長し、市場の割合を奪っていくためには、「技術」の「革新」が必要だ。

本屋さんに行ったら「イノベーション5.0」や「アイデアを生み出す技術」みたいな本がたくさんならんでいる。イノベーションとは技術革新であり、アイデアとは技術の源のことだ。

「アイデアを生み出す技術」を身に着けること、あるいは拡大成長路線から降りること、この二つの道が僕たち(ホワイトカラー)に突き付けられている(ように見える)。もちろん、こうした見方は極端っちゃ極端だけど。

でも、アイデアを生み出す技術って、『思考の整理術』みたいなので、ようするにメモ帳をどうするかとか机の上をどう工夫するかとか朝に何を食うかとかの話だ。ある機械がぽんぽんぽんぽんアイデアを生産してくれるわけではない。パソコンもロボットも役に立たない。アイデアはいつだって頭を持つ人間が難産するものだ。つうことは、僕たちはずっと難産しなければならないらしい。(しかも、その難産の結果はおおかた会社に取られる。それでも、アイデアを採用されたらうれしいものですけど、けれども、そういう話ではない)。

稼ぐために、生き残るために必要な統制の程度を左右するのは、「技術」だ。「技術」があればファシズムは要らない。「技術」がなければファシズムが要る。どこに共通するものをおくか。思想まで共通させなければ、生き残れないのか。技術だけ共通させれば、生き残れるのか。それは程度の問題だ。

いくらファシズムがいやだ、統制は嫌いだ、といっても、技術がなければどうしようもない。そして、いまは「技術」の革新のための技術が求められるのだ。つまり、組合を起業した僕たちも「アイデアを生み出す技術」を体得せねばならない。僕たちは(ある程度の規模まで)拡大成長しなればならない。「技術」を革新しなければならない。そうでなければ、組合員を増やせないからだ。

僕たちは拡大成長しなければならない。
おいおいおいおいおい、ちょっと待て。お前はオルタナティブ派じゃなかったのか?拡大成長を幻想と断じ、そこからの脱却を目指すのではなかったか?

まったくその通りだ。
だが、それにもかかわらず、僕たちは拡大し成長しなければならない。

なぜか?

職を創出しなければならないからだ。(雇用ではない。)

専門性のある人間が市場を開拓し、専門性のない人間がそれを支える。その人数を徐々に徐々に多くしなければならない。

いや、「しなければならない」というのは嘘だ。
四五人で(あうんも最初はそうだったそうだ)、ちまちまと、だがのびやかに生きていてもいい。それはたとえ、二三人しか専門性のない人々を雇えなかったとしても、とてもすごいことだ。みなが制度(構造)的に争いを強いられ他人を殺しながら生きている時代に、そのなかにおいて二三人でも制度(構造)的に手を差し伸べられるというのはものすごいことだ。

だが、僕はやっぱり企業組合あうんのすごさを見ているし、企業組合が力をつければいろいろなことができるんじゃないかと思っているし、物欲はそうでもないが名誉欲的には欲張りなので拡大成長し
たいんですよ。

じゃあ、一般企業と企業組合の違いはなんなんだ、と。
一般企業の拡大成長と企業組合の拡大成長は、いったい何が違うんだ?

それは、やはり人ではないでしょうか。人というか、人数。あるいは、組合員の必要(needs)。

一般企業は(あたりまえだけど)、自分たちの取り分を多くし給料を増やすために、利潤のありそうなところに進出する。そのために人を雇う。ただし、できるだけ少なく。

企業組合は(難しいけれど)、自分たちの取り分が多くなっても給料がすごく高くなることはない。でも、ともに働く組合員が増える。利潤ではなく、(潜在的に)働きたいと思っている人の職を創るために、生活を維持できるくらいは稼げそうなところに進出する。

これが企業組合の原理原則ではないだろうか。

p.s.1
最近の若者には専門性がない。なぜだろうか。
ひとつは、僕たちの親らへんからいろいろなものをお金で買って済ませるようになったので、料理や裁縫、家具の修理など身の回りのことをしなくなったことにより能力がなくなってしまった、ということ。(僕なんかもそのひとりで、そのせいで唯一能力を発揮できた言語力が高まったのかも)。
もうひとつは、専門性を獲得する前に非正規労働者になることで、職業的な専門性を得ることができないということ。専門性のあることは正社員が(残業して)やっちゃって、非正規に任せられるのは簡単な仕事だけ。

p.s.2
予備校のひげもじゃの白髪の先生は1968年の学生運動のことを「ぼろぼろに負けた」と言ってた。
その彼の言葉でいくつか心に残っているのがある。
たとえば、「俺たちは人<社会じゃなく、人>社会とまではいかなくても、人=社会であるような世界を創ろうとしたんだ」ということだ。それに対して僕は授業の後に「人=社会になるための理論もないのに、いったい何をやろうとしてたんだ」と批判を加えたが、まさかその「人=社会になるための理論」を六年後の自分が書こうとしているとは夢にも思ってなかった。
その先生が最後に残した言葉は、「これからはマルクスイスラムの時代だ」。なんというか。さすが1968世代というべきか。