スキマ寮@石橋2017年度 新寮生募集!!

大阪大学のふもと、石橋にスキマ寮を作りました。定住者だけでなく、誰でも使えるシェアハウスです。 いつでも来て、寝たり食べたり飲んだり話したりしてください。イベントや読書会あるいは、秘密結社の儀式など、なんにでもお貸しできます。興味がある方はいまそこでただちにお問い合わせください。(お茶しよっか。)連絡をもらえれば、誰にでも鍵のありかをお教えします。勝手に入っちゃってください。ishibashisharenokai@gmail.comまで連絡を!〒563-0032 大阪府池田市石橋1-21-10

暗い未来について

さっき同じ世代の友人と次の土曜日の企画の話をしていた。数日前に雑談する中で、未来について語る機会がないなということで意見が一致し、「暗い未来を考える会」というものをやってみようじゃないかということになったのだ。(ほんとにやるよ)

その友人の未来は明るいらしい。明るい未来しか想像できないらしい。だから、「暗い未来」ちゅうのがよくわからんそうだ。「小峰くんも自分の未来は明るいと思ってるでしょ?」と。

いやー、どうなんでしょうねー。

暗いっしょ。どうしようもなく暗いっしょ。だって、年を取っていくんだよ。老いていくんだよ。年上からの数少ない妥当な批判は、「オルタナティブって若いうちだからできるんだよね」とか。あとキツかったのは、文学フリマでスキマハウスについて40歳くらいの人に話したら「なんかなつかしいですねー」って。これは効いた。ちょっと待って、過去のものみたいにしないでって。

何が問題か? 活力だ。そのコミュニティの活力だ。
力で押し切ってるんだよな、オルタナティブって。

たしかに、このままでいい、ひとりでいい、子どももいなくていいという人はあまりこの問題を考えなくていい。ひとりだ、なんとか生きていける。このまま老いて、力は減退していくが、それでもこのまま楽しく歌いながら踊りながら生きてはいける。それはほんとうにとてもいい人生だ。

でも、僕は生きる苦しみを味わいたい。このままでいるというのは、いまと同じような楽しみや苦しみの延長をこの先も味わい続けるということだ。でも、僕はもう少し異なる苦しみを味わいたい。結婚、事実婚、出産(してもらう)となると、他人とどうしようもなく関わることになる。そこでは独り身では感じることのできない喜びと苦しみがあるのだろう。日々減退していく自分の力と、日々増していく他人の切り離せなさが生きる苦しみを生み出すならば、僕はわりとそれを望んでもいる。

昨日も引用したけれど、「私の望むものは/生きる喜びではなく/生きる苦しみなのだ」。

その生きる苦しみを味わうために僕はシェアハウスをしているのかもしれない。結婚・出産(してもらう)ことが許されない非正規では、苦しみを味わうことさえできない。だから、なんとかしようと思う。しかも、僕は欲張りなので正規として就職し、みんなと同じように苦しんでみんなと同じように楽していくよりも、非正規として自らの力に賭け、先例があまりないところから自らの人生を切り開く喜びと苦しみを得たい。そこでは、互いに協力し合って生きていくことが重要なのだ。そのように協力関係を組織していく過程での軋轢もまた生きる苦しみだ。

コミュニティの活力は老いるからなくなる。けれど、同時にひとがいなくなるからなくなるということもある。オルタナティブ派の構成員はおおよそ二つに大別できる。社会に「順応できなくはない人」と社会に「順応できない人」だ。残酷だけど、ほんとうのことだ。そして、活力のある「順応できなくはない人」は、いずれ頑張って順応してどこかに飛んで行ってしまう。それを「順応できない人」は裏切りだと感じるかもしれないが、違う。それは「必然」だ。その「必然」によってオルタナティブ派は活力を失っていく。

んじゃ、どうするか? いまのところ、起業する、という選択肢がある。つまり、活力のある「順応できなくはない人」の生活を維持し、その活力を発揮できる場所、「順応できない人」の生活を維持し、そこで自分自身には価値があるのだと再認できるような職場をつくる。

今回はちょっと長いなー。でも、もう少し頑張ろう。もう一時四十分だけど。深夜テンションでジムビーム飲まなきゃ、こんな暗い文章なんて書けねえよな。

これから話すことは、この夏に研修に行かせてもらった「企業組合あうん」で学んだことなんだけど、実は僕の出身学科である「臨床哲学」とものすごく関係がある。まず、臨床哲学の話から。

ついさっき、友人たちと話していて、やっぱり問題はオッサンなんだと再認識した。もう友人の職場のオッサンどもがひどいらしいのだ。「お前の心の病なんて、うちで働いていれば治る」ってさ。もう、すごく恵まれて育ってきたんだねえ。自分の土地に自分の店、その上、家業ときたか。(僕もすごく恵まれてるんだけどね)

オッサンというと、この社会を動かしている上の世代のことだ。若者を人間と思わず、自分の考えを押し付け他人の人生を勝手に決めつける人々。オルタナティブ派のやつはだいたいオッサンが嫌いだ。何が嫌いかというと、人の話を聴かないなんだ。そんでもって、「お前はこうすべきだ」とかわけのわからん助言をしてくるし「お前はここが足りない」とか決めつけてくる。人の話を聴かずに、自分の経験や考えから、他人を決めつける。そういう己を含めた人間に対する敬意を失った人々を僕はオッサンと呼ぶ。ジェンダー・年齢は問わない。

臨床哲学は、ある意味、哲学の脱オッサン化を目指す運動だった。鷲田の『「聴く」ことの力』の冒頭付近にはこういう言葉がある。

「哲学これまでしゃべりすぎてきた……」(p16文庫版)

そして、「〈聴く〉こととしての哲学の可能性について」(p15文庫版)を考えていく。そこから、他人がぽつりぽつりとしゃべり始める、その瞬間を追っていく。まず、自分がしゃべるのではなく、相手がどのようなことを考え感じ話すのか、聴く。

他人の話を聴くなかで、私たちは変わっていく。そこが〈臨床〉だ。

「〈臨床〉とは、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面というふうに、いまやわたしたちは〈臨床〉の規定をさらにつけくわえることができる」

「ある他者の前に身を置くことによって」「じぶん自身もまた変えられるような経験」。ここがポイントだ。とてつもなくポイントだ。聴くことでじぶんを変える用意があること、準備しておくこと、覚悟しておくこと、その心構えがあるかないかでオッサンかどうかが決まる。

このような変容しあうという関係は人と人との間で、ということになっているが、人と組織の間で、ということになってもいいだろう。つまり、人が組織に合わせるのだけではなく、組織がその人その人に応じて変容していくということが、あってもいいだろう。(大企業が幹部候補にのみ、しばしば彼らの特徴に応じるように)

従来のように、ある決められた仕事があって、それに対応できないやつはクビを切る。そういうこりこりに固まった組織では、人は誰とでも取り換えできる、交換可能な存在となる。人に対して「ここにいるのはお前じゃなくてもいい」と告げることをレヴィナスは人間への「根源的な不敬」と呼んだ。決められた仕事に自らのこころとからだを捻じ曲げて適応しようとする歯車は悲惨だ。

そのようなこりこりに固まっていないような、やわらかい組織というものを僕は想像することができる。なぜなら、そのような組織を実際に東京で見たからだ。リサイクルショップ「企業組合あうん」である。日雇い労働者、ニートネカフェ難民、支援者、各々の特徴に合わせて、各々が仕事をする。老いて現場に入れなくなると、みんなのメシをつくる。話すのが苦手ならば店舗ではなく引き払いの現場に入る。そうやって、個人個人に応じて互いが互いに仕事を譲りながら、一人だけが入っても集団はその形を変えていく。そういうやわらかい組織は、「決められた仕事がこなせるか、こなせないか」で判断する組織とは異なる。

人間は社会の歯車であることが問題なのではない。社会の歯車であることは糧を得るためには必要であり、ときにはそのことが喜びにもなるのだ。問題なのは、社会がこちこちに固まっていて、人間という歯車に一方的に変化を求めてくることである。そうではないけない。人間が自らを生かすために社会を用いるなら、その人間という歯車の特徴に応じて社会も変わるべきだ。

ここまではわかっている。これからもっと考えなければならないことがたくさんある。

このようなやわらかい組織はひとつの理想だ。ただの理想に過ぎない。だが、理想とはひとつの視点でもある。その理想から現実を見ることができる。というよりも、理想を持たない者は視点を持たず、それゆえに現実に対して盲目であるという。