スキマハウス 新入居者募集!!(12月~)

大阪大学のふもと、石橋にスキマ寮を作りました。定住者だけでなく、誰でも使えるシェアハウスです。 いつでも来て、寝たり食べたり飲んだり話したりしてください。イベントや読書会あるいは、秘密結社の儀式など、なんにでもお貸しできます。興味がある方はいまそこでただちにお問い合わせください。(お茶しよっか。)連絡をもらえれば、誰にでも鍵のありかをお教えします。勝手に入っちゃってください。ishibashisharenokai@gmail.comまで連絡を!〒563-0032 大阪府池田市石橋1-21-10

オルタナティブ派ってなんやねん?

僕は共有してあまり消費しないオルタナティブな生き方を目指すとか言ってて、んじゃ、オルタナティブって何なのかって話なんですが、オルタナティブって要するに少数派ってことなんですよね(意味は違うけどさ)。

昨日世代の違う友人に「これからもオルタナティブは主流派になることはないでしょうね」と言われて、僕も「そうですね」って答えました。

その友人が語るには「経済を拡大成長しなければならぬという幻想が強すぎるから、あなたみたいな生き方を志向する人は主流派にはなれないだろう。やはり拡大幻想になびく人が多いだろう」と。
僕も「そうですね、少なくとも百年くらいはなびくでしょうね」と。

それでも地球の資源は有限で、いずれ拡大幻想になびくような生活は破綻し、変化せざるをえなくなる。いま、オルタナティブを目指す人は、いくら「社会変革だ。革命だ」といってもそんな即効性はなく、むしろ遠い遠い崩壊への予行練習している。という側面を持つ。(社会変革はもっと政治の領域に関わるものです)。

拡大幻想派のせいで、地球が悲鳴をあげて、物価が高くなったり災害が生じたりして生活が成り立たなくなったとき、さて人類が滅亡するのか、オルタナティブな生活への移行を果たすのかはわかりません。ひたすら予行をつづけたオルタナティブ派のささやかな成果が少しは実ればいいですけどね。

しかし、オルタナティブ派は、別に将来の地球とか人類のためにやってるわけではおそらくありません。拡大幻想派の「幻想」と地球の市場・資源が有限であるという「現実」の乖離が進行する中で、「ちょっとやってらんねえな(どうせ南海大震災とかでみんな死ぬんだろ←これは冗談ですか?)」と思った人たちが、別の生活の文脈を編もうとしている。そういう活動を広くオルタナティブと呼ぶ。

いやー、酔ってきた。

偏見を最大限にあげていうけれど、オルタナティブ派は基本的に学校とか会社とかに生きづらさを感じている人が多いと思う(端的にいうとスクールカーストが低かったり、いじめられたり)。つまり、会社などに順応できない人が多い。(だからといって、弱いわけではない)。そういう人たちはいまも昔もいる。

といっても、昔は「正社員」しかなかったし、会社に我慢して入れば生活もそこそこ維持できたので、そこに入った。自分のこころとからだを無理くり捻じ曲げて順応すれば会社になじめばいろいろOKだった。(しかも、たぶん会社もいろいろな人にもっと寛容だったはず。だって、なじめる人もなじめない人もみんな一緒に働くのだもの)。

いまは「正規」と「非正規」がある。やむを得ない事情で「非正規」雇用に甘んじる人がいる。でも、(僕なんかもそうだが)順応できなかった過去の学校や仕事の経験に基づき、あえて「非正規」に走る人もいる。自分のこころやからだを捻じ曲げて会社に入るとして、さて、会社に入ることにそれだけの価値があるかどうかと思い込みで疑ってしまう。ちゃんと会社に入れば自分のスキルは上がるし、それだけの価値があるというのはたしかだけれど、逆に言えば昔と異なり、その次の転職のためにスキルを上げるくらいの価値しかなくなったように僕には見える。(それは大事な生存戦略だけど)

しかも、順応できない(と自分で思っている)人はこぞって「非正規」に行き、順応できる人が「正規」にいくんだったら、そりゃ順応できない人は「非正規」にいくだろう。なんせ順応できる人々ばかりの「正規」はやりにくそうだ。こうやって、会社の寛容さは減っていく。つまり、会社には順応できる人だけの寛容さの低い組織になってしまう。(昔は変な奴もいっぱい会社にいて、それでも「国を豊かにする」という旗印の下、一緒に仕事をしていったはずなんだ)。

オルタナティブはそういう順応できない人が年を取ってジリ貧になっていく過程であり、「ちゃんと正規で生きていればなあ」という風な嘆きへの道でもある(僕はすでに嘆いているし、将来嘆くことは決定している)。オルタナティブ周辺にいる順応できなくはない人間の多くはモラトリアムとしてオルタナティブを活用し、最終的に「正規」で就職していくだろう。それに対して順応できない人は「裏切り」を感じるかもしれないが、こんなものは裏切りでもなんでもない。「必然」だ。

その「必然」をためらいながらも一蹴してオルタナティブな生き方に賭けるには強くなければならず、それは一種の才能だ。心の中に地獄を持っていなければできない。心意気的には「一度は死んだ身」くらいのノリ。それに加えて「なんだかんだ生きていけるでしょ」くらいの能力。この二つがいる。新しく生活の文脈を編もうとする人々にいる二つ。

結論。何が言いたいかというと、拡大幻想派が「現実」を見ないがゆえに地球は崩壊していくだろう。その崩壊に備えているのがオルタナティブ派である。(オルタナティブ派は「いや、私たちが世界を変えるのだ!」というかもしれないが、抜本的に変えたいなら政治をやるべきだ)。

でも、オルタナティブ派は別に地球の崩壊とか考えていなくて、単純に社会からはみ出てしながら生きているだけだ。その選んだ生き方がたまたま将来、地球崩壊の備えになっているだけだ。

そんで、はみ出しても楽しく生きるくらいのことはしていいはずだ、という全人類の確信がオルタナティブ派を後押しする。生きていく、生活をしていく。生活するうえでは、いろいろな問題が生じるだろう。解決していかなければならない。苦しみだ。だが、「誰かの他人の問題」に対処しているのではなく、「私たちが生きていくための問題」に対処しているならば、そういう苦しみならば、僕は耐えれる(と思う)。

これは岡林信康の歌詞を参考にして書いています。
彼は一番では

「私たちの望むものは
生きる苦しみではなく
私たちの望むものは
生きる喜びなのだ」と歌うけど、

二番では

「私たちの望むものは
生きる喜びではなく
私たちの望むものは
生きる苦しみなのだ」

と歌うのです。

最高やで。