スキマ寮@石橋2017年度 新寮生募集!!

大阪大学のふもと、石橋にスキマ寮を作りました。定住者だけでなく、誰でも使えるシェアハウスです。 いつでも来て、寝たり食べたり飲んだり話したりしてください。イベントや読書会あるいは、秘密結社の儀式など、なんにでもお貸しできます。興味がある方はいまそこでただちにお問い合わせください。(お茶しよっか。)連絡をもらえれば、誰にでも鍵のありかをお教えします。勝手に入っちゃってください。ishibashisharenokai@gmail.comまで連絡を!〒563-0032 大阪府池田市石橋1-21-10

スキマハウスの人文知の無意味性について

【スキマハウスにおける人文知について】

世界には、この本を読まなければ何も考えたことにはならないと、(いろんなことを考えた人に)言わしめる本があります。
つまり、この本を読まないで考えたことなど、おしなべて無に等しい、という本です。それを必読書と呼びます。

でも、そういう本ほど難しいし、そもそも興味もないし、あんまりおもしろくないし、ひとりじゃ読まない。
ということで、みんなで読みたいなと思っています。

吉本隆明がこれ読まなくちゃあ、ものを考える(or書く)なんてできねえよって言っていて

柄谷行人(たち)が彼(ら)の「これを読まなければサルである」と題を打つ著書『必読書150』に入れていて、

東浩紀が推薦している20冊のうちのひとつ。

フーコーといえば『言葉と物』なんですが、『監獄の誕生』とどちらを挙げるかは迷いました。フーコーは「近代とは何か」、そして「人間はどうして近代の終わりに立っているのか」ということをもっともきちんと考察した人です。そしてその一番まとまった本がこの本です。近代の終わりなんて皮相的だ、とか言うひとは、ぜひいちどこの本を味わって読んでもらいたいですね」(東浩紀)。

毎週金曜日に『言葉と物』でもみんなで読みたいのですが、どうでしょうか。

なんか、こういう「これ読めよ」みたいな文章は流行らないでしょうけど、「好きな本だけ読んでればオーケー」みたいな話にはまったくのれない。

鷲田清一はこう言っている。

「人が美術館に行くのには3つの理由がある。見たいものが見られるから行く、見たこともないものに出合いたいから行く、見ておく必要があるから行く。この3つ目が実は大事だと思う。見なければならないというと窮屈な感じがするが、ものごとの軽重の判断がつき、価値の遠近法を作り上げるには大事なことだ。自分が理解できるもの、自分が関心を持っているものとは全く違う、もう一つの視点に触れる、そういう補助線を入れることで、視線の遠近法をより正確なもの、客観的なものに作り直していく、この経験が非常に大事なことなのではないか」

読む必要があるから読んでおく。
つらいけど読む。そういうことを怠っているから、おおよそ俺も含めて、スキマハウスの人文知はほぼ壊滅状態だ。ただ、おれらの好みがあるだけだ。人文知っぽいものがあるだけだ。だが、人文知はない。その思考はおしなべて無に等しい。

ってこんなこと印象で書くと怒られっかな。まあ、ほんとのことだから仕方がないよね。中途半端に読むんだったら、読まない方がましなんだよな。レベルが低いんだよ、レベルが(おれもだけど)。

オルタナティブ運動と労働運動

オルタナティブ運動と労働運動〉

朝から酒を飲んでいる。この文章を書くためだ。いまから大事なことをやっつけで書くけれども、それは急いでいるためである。(三日前には書いたのに、データが保存されてなかったんだ)。だから、どうか気にしないでほしい。何を? 何もかも。

 さて、おれはケチだ。(三日前の冒頭もこう始まった)。国産のものなんてめったに買わない。中国製、バングラディシュ製、ベトナム製、グローバリズムの恩恵にさずかっている。なんでだろうか。金がないからだ。貧乏で金がない。金が稼げる見込みもない。そこそこ収入が今はあったとしても、いつどうなるかわからない。だから、安く済ませてしまう。この世界(大阪ね)で安いものを買うとは「庶民的」であることで、それ自体称揚されていることだ。だから、飲む酒もジムビームである。

 まあ、だからといって、おれが安いものを買うことに罪意識を感じていないわけではないのだ。後進国から巻き上げた商品で生活している。それが後進国に人々を苦しめている。おれの箸を作る工場を建てるために、中国の村落が一つつぶされたのかもしれない。おれのエビを養う池ために、タイの森が切り崩されたのだろう。俺の友達がフィリピンで言われたらしい。

 

「ここの海の魚は、あるとき日本人が全部獲っていってしまったから、もういない。お前、それについてどう思う?」

 

きっと安く売りさばかれんだろうなあ、その魚。後進国の人々の生活を切り崩して、おれたちの貧乏生活は成り立っている。

 

 だから、なんというか、オルタナティブだとか、働かないでたらふく食べたいとか、国民に怠ける権利を!とか、おれも望まないわけじゃないんだけどさ、そのあえて選び取った貧しさの下にも抑圧されている人々がいるのわかる?

「わかんないよ」

「なんで?」

「見えないもん」

バーカ。考えればわかるだろうが。テレビもあるんだしさ。

 レヴィンスなんかを引用して、適当に哲学の入門書を引っ張り出して「相手の苦痛に捻じ曲げられた顔を見たとき、私たちには責任が問われる」とか「他人が苦しんでいるのを見て、じぶんも苦しむのだ」とか言って、身近な人間関係だけに対して「倫理」的であろうとする「ええやつ」(お前のことだよ)に聞きたいんだけど、じゃあ、おれたちがテレビで見る後進国の人々の悲惨な表情はどうなるんだね? あれも顔じゃないのかね? あそこからも責任が問われてるんじゃないのかね? それを棚上げして、身の回りの人々との人間関係を現象学やらやら哲学やらびっっしゃー使ってうんぬんかんぬんしても、だれが聴くんかねそんなもの。ジャーナリストの懸命な仕事に応えてやれよ。戦場カメラマンがどうして顔を映すのか考えてみろよ。

 

 おれが高校の頃に吹奏楽部だったとき、顧問の先生にこういわれたことがある。

「一番遠くの楽器の音が聴こえるように吹きなさい」

これと同じことだ。おれたちが生きるときは、世界の遠くの人々の声に応えられるように生きなければならないのだ。おれたちには見えない、だがおれたちに苦しめられている人々の方から考えなければならないのだ。〈外部〉から考えよ!ってね。

 でも、残念だが、おれたちがいますぐ中国抜き、バングラディシュ抜き、タイ抜き、ジャパン、ドイチュ、フレンチ、アメリカンオンリーで暮らしていけるかというと、それは無理だね。だって、金がないもん、金が。金がないんだよ! つまり、貧困なのは後進国の大部分だけではない。先進国の大部分も貧困なのだ。おれたちは九十九%なのだから。

そして、先進国の貧困層は国産やらドイツ産やらが買えない。いいものが買えない。すると、フィリピンに頼ることになる。先進国の貧困(相対的貧困)は後進国の貧困(絶対定期貧困)とつながっている。だから、おれたちは豊かにならなければならない。おれたちは豊かになる責任がある。(金があっても、買うかどうかはわからんがね。でも、金があるというのは前提条件だ)。

 だが、間違えるな。これは断じておれが豊かになる必要があると言っているわけではない。おれが、ではない。おれたちが、である。みんなが、である。金を稼げるようにしろ。ただし、おれが、ではなく、おれたちみんなが、である。

 正社員になってバンバン働いて金を稼いでやろうぜ!とはならない、なってはならない理由がここにある。おれだけが国産を買えるようになっても意味がないのだ。世界にとって無意味なのだ、それは。(もちろん、豊かな人々は日本の工場を潰さない、技術を伝承するという理由によって、国産のものを買ってもらう必要がある)。みんなが豊かになるように動かなければ、おれたちは遠い世界の人々に何も応答したことにはならない。

 

 そこで、労働組合というものが登場する。一部の人々がお金を巻き上げるのではなく、利益を得るのではなく、末端労働者にもお金と利益の分配を!と訴える倫理的な必要性がある。このとき、必要な労働組合産業別労働組合だ。いまの日本は企業別に労働組合が主だけれども、組織率の低いこと低いこと。しかも、弱いだろう。そもそも企業別労働組合は、その企業がなくなってしまえばつぶれてしまう。しかも、自社の労働者の待遇だけを改善すると、他の同業企業に競争で負けてしまうかもしれないから、改善したくてもできない。たとえば、エヌ社だけ時給を二千円にしても、他の同業の会社が時給八百円のままだと、どうしてもエヌ社の商品は高くなり、売れなくなってつぶれてしまう。企業別労働組合は弱い。(単純に考えればね)。

 だから、業界まるごとの労働組合を作らないといけないね。最終的にはインターナショナルじゃないといけないけど、まずはナショナル(国内)から。ある業界みんなで一斉に待遇改善、これが必要だ。金を稼ごう、金を。やっぱ、金っしょ、金。

 そういうと、「お前これまで、貧乏でも生きていける生活を!って言ってきたじゃねえか。一貫性がないぞ」と脅されそうだ。たしかに、おれは、貧乏でも生きていける生活を!って言ってきた。だが、それは豊かに生きていくためだ。これから貧乏になっていく。だからこそ、貧困対策が必要なんだと言ってきた。そして、だれも抑圧しない形を目指す。だから、労働組合が必要だ、地域社会が必要だ、協同組合も必要だと言ってきた。

 協同組合! これはおれが先に書いた文章の中心となる主題のひとつだった。労働者みんなで出資して作る企業。経営者が労働者を搾取することを防ぐための企業組織だ。

 だが、これにも難点がある。競争社会の中に協同組合という企業体がある以上、協同組合は他の企業と競争せねばならず、キリキリ切り詰めを強いられる。たとえば、他の会社が労働者にあほみたいに働かせてブラック企業化したとしよう。そうすると、協同組合は競争に勝つために、労働者を安く働かせる必要が出てくる。商品やサービスの値段を他企業が(労働者の搾取によって)安くしたら、協同組合も(会議の合意に基き、じぶんたちの給料を下げるというかたちで)安くしなければならない。

協同組合のあり方は、他企業のあり方に規定されるのだ。だから、労働組合によって、その業界全体の労働者の待遇を改善しなければならない。搾取を防がねばならない。革命運動(オルタナティブ運動)と労働運動は緊密に重なり合ったセットなのだ。労働運動をせず、働かないでたらふく食べたいなどというのは、たわごとに過ぎない。社会の中に生きている以上、社会が変わらなければ、おれたちも変わらない。

 

「おいおいおいおい」と待ったが入った。

「そんなでかいこと言っても、お前の身の回りのものは中国産ばっかりだ」と言ってくる。

たしかに、そうだ。おれはベトナム産の服、中国産の皿、フィリピン産のお菓子、後進国のものに満ち溢れて生活している。これは改めるべきことだ。だが、やる気が起こらない。

 

だって、お金ないもーん。

 

 おれはなけなしの金で国産のものを買って、あーこれで世界が少しだけ平和になったとうっとりしたいわけではない。そんなものおれひとりが買ったところで何になるというのか。その金は労働者から搾取したものではないか。その国産品の購入は幾多の中国産品の購入によって支えられているのだ。それゆえ、みんなで豊かになるには、構造を変えなければならない。

おれは自分自身を変えたいわけではない。おれは社会を変えたいのだ。社会を変える活動を少しでもすることで、見えないし会うこともない遠いバングラディシュの人々の問いただしに応えたい。「お前の国が俺の村をつぶしたのだ」という問いただしに冷や汗をかきながら、ごえんなさい。いや、でも、しかし……しかしですね、日本で私はこういう活動をやっておりまして、……へえ、そうなんですよ、へえ……(I am sorry. But,bu,but……but! In japan I do the activities which blablabla……yeah,ye,yes! Heee……)と、しどろもどろながら応えられるように。

言行一致のために国産のものを買わなければならない、にもかかわらず、おれは国産のものを買いたいとは思わない。この分裂のまま生きていこうか。この分裂のなかに、問いただしが生じているのだから。国産品を買うことで、その問いただしに自分だけ目をつむることをしたくはない。

 では、いつおれが国産品のものを買うのか。それは、自ら書いたこの文章に影響された欲望によってではなく、一消費者としての自分の欲望から、国産品を買いたいと思ったときである。活動家としてのおれではなく、生活者としてのおれが買いたいと思ったときである。そもそもおれはケチだ。金もない。健康に気を使いもしない。早めに死にたいと願っている。だから、からだと自然にやさしい有機野菜なんて買わない。倫理よりも欲望を優先しがちだ。フィリピンのバナナ?買う。タイのエビ?買う。安いから。誰かに買われるんだったら

おれが買うわ。ここでフィリピンのバナナを買うのを我慢するという抵抗がいかほどのものか。それで、社会が変わるのか? 変わるなら、我慢なんてなんぼでもしてやるよというスタンス。

だが、そんなおれが変わるときが来るかもしれない。おれが変わるときは、おれだけが買うのではなく、みんなと同じようにおれも買うときだ。じぶんが変わるのではなく、社会を変えることで、その一員であるじぶんも変わるという選択をえらぶ。我慢する倫理的に正しい窮屈さよりも、変革を予感させる途方もない荒野と地平線を選ぶ。「庶民派」の実感を失ったら最後、労働運動は現実から遊離すると思うのだ。(独善的かな?)

 

まあ、こんなところかね。そういえば、あの神戸が生んだカリスマ社会運動家賀川豊彦が自伝的小説のなかで叫んだそうじゃないか。

 

「おれは日本へ帰って労働組合からはじめる!」

 

暗い未来について もっと具体的に。

もっと具体的な話を。
実は、僕は「オルタナティブ派は拡大成長しなければならない」と思っている。その理由を。

僕が企業組合あうんとか素人の乱をみならって「リサイクルショップをしたい」というと、いろいろな人から怪訝な顔をされる。
いやいや、できるのか?って。僕も思う。できるのか?って。

信頼すべき批判者からは「極めて困難だ」と言われた。続いて「極めた困難なだけだ」とも言われたが。でも、「極めて困難だ」ということは、いまはやめとけってことだ。(いまは、ね)。

ということで、「リサイクルショップをしたい」と言っても、現実味がない。つまり、稼げる見通しが立たない。

稼げる見通しが立たないというのは、とっても重要なことだ。
まず、人が集まらない。稼げる見通しがなくても、集まる人というのは、かなり変わり者。ほとんどいない。大阪では難しい。(東京や京都の「若者」ならできるかもね)。

なぜ、見通しが立たないかというと、他のリサイクルショップと争って勝てるほどの専門性がいまのところないからだ。リサイクルショップで働いてはいるが、かといって、二年後に起業して勝てるかというと、リサイクルショップでは難しい。

なら、どうするかというと、勝てるような職種に変えるしかない。
たとえば、塾の経営とか。(幸い、身近にやってる人が何人もいる)。

だが、塾の講師には専門性がいる。
つまり、勉強を教えるだけの力がなければならない。
誰でもできることではない。
専門性が高い人間だけができることだ。
言い換えれば、専門性の低い人間にはできない。
つまり、職に困っている人に手を差し伸べることができない。
明治昭和ならいざ知らず、これじゃ、この時代に起業する意味なんてない。

といっても、塾は決して講師だけで成り立っているわけではない。
事務に掃除にチラシ配りにとさまざまな業務があるだろう。
そのようなことは専門性がなくてもできる。
ここがポイントだ。

専門性がある人間は専門性がある仕事を、
専門性がない人間は専門性がない仕事を。

予備校でひげもじゃ白髪の先生(吉田師)が言ってたな。
「若者に仕事がない。でも、老人が放置自転車の見回りをしている。それじゃ、若者は老人の仕事を奪えといっていいのか。いや、そうじゃない。若者には若者の、老人には老人の仕事がある」。
(師は、そういえば、僕が初めて会った1968世代でもある)。

専門性のある人間が市場を開拓して稼ぎ、専門性のない人間がそれを支える。
とすると、仕事の優劣で不平等が生まれるんじゃないだろうか。専門性の高いやつが低いやつを見くびるとか、痛めつけるとか。
そういうこともなくはない。いや、あるだろう。しかし、そうはいっても村落共同体は各自適した役割を、というかたちで動いていたわけで。少なくとも、あからさまに不平等があるいまの働き方よりはましかと・・・。(非正規は非正規という理由でバカにされるから)

まあ、こういうワークシェアっぽい考え方(なのかな?)が必要だ。

でも、これは採算度外視だ。

ふつう、チラシ配りもなんでも専門性の低いものは非正規に任してしまうが、そこを正規並みの組合員に任せなきゃ、この時代、(何度も言うけど)起業する意味なんてないな。

(非正規使って企業したら悪いなんて言ってるんじゃない。そんな高度な次元まで達してはいない。僕はそういう企業は良い悪い以前に、無意味だって言ってるのだ。お前の会社なんて、この時代に、あってもなくても一緒なんだよ、ってね。まあまあすごいけど、ぜんぜんおもしろくねえよって)。

と、まあ、そういうことを考えているのです。実際に、できるかどうかはわからないけれど、とりあえず、そういうことを考えるのです。

ところで、最近、ファシズムのことについて考えている。
あべとかじゃないよ、ファシズムだよ。思想統制くらいの意味合いだろうか。

どんな企業であれ、企業は基本的に少しばかり(あるいはものすごく)思想統制を行う。僕の友人はダイ〇ンという会社に入ったらしいが、最初の研修で自己啓発セミナーが発している思想を強要されたらしい。拡大成長という観念への統制。企業にとって思想統制が「生き残り」の道ならば、そうなるわけだ。

アメリカやらイギリスやらがファシズムに陥らなかったと言い、日本やらドイツやらがファシズムに陥ったというもの言いを信じるならば、それは「生存競争」において「生き残る」ための「技術」があったかどうかだ。アメリカには技術があり、日本には技術がなかった。そこから暴力を伴う思想と精神の統制が生まれる。天皇制がいやだやら風土がよくないやらのやわな次元の話なのか?

つまり、企業であれ国家であれ、ある共同体の「生き残り」が迫られているところで、「生き残る」ための技術がないとき、共同体は思想まで統制して構成員を決して逃げないようにし、ひたすら働かせようとする。共同体やその首領が「生き残る」ためだ。共同体の首領や中心は、その共同体がなければ生き残れない。

そうして、「生き残る」ための統制は「信仰」の次元にまで高められさえする。

「山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰は要らない」

というエリックホッファーはおそらく正しい。(彼はファシズムの時代を生き、最初の著書は『大衆運動』だ。)

それゆえ、ベンチャー企業などは一種、宗教的な側面を帯びることもある。「この先に約束の国が・・・」と。(ソ連の場合は、「この先に真の共産主義が・・・」というところかな)。

それ自体は悪いことではない。はじめはやはり、そういう「信仰」に頼る期間がなければ、何も生み出せないというのは事実だろう。
と同時に、その稼ぐ「技術」が体得されるにしたがって、「信仰」からは徐々に解放されていくべきなのだ。

「稼ぐ技術があるところでは、稼ぐ信仰は要らない」ということになる。

でも、この世界がとっても悲しいのは、その「技術」さえも拡大成長「信仰」を生み出すために動員されていることである。「技術」があるところでは、人間は解放されるはずであったのに、その「技術」に「革新」の二文字が加えられると、これはもう、どうしようもないほどの狂気を誘う。

つまり、「技術」を開発して他人や他社を稼ぐことができても、その他人や他社が新たな「技術」を開発して自分たちの取り分を奪うのではないかという恐怖があるため、ただ、ひたすらに「技術」の「革新」(すなわち、イノベーション)が求められるのだ。国も会社も拡大成長し、市場の割合を奪っていくためには、「技術」の「革新」が必要だ。

本屋さんに行ったら「イノベーション5.0」や「アイデアを生み出す技術」みたいな本がたくさんならんでいる。イノベーションとは技術革新であり、アイデアとは技術の源のことだ。

「アイデアを生み出す技術」を身に着けること、あるいは拡大成長路線から降りること、この二つの道が僕たち(ホワイトカラー)に突き付けられている(ように見える)。もちろん、こうした見方は極端っちゃ極端だけど。

でも、アイデアを生み出す技術って、『思考の整理術』みたいなので、ようするにメモ帳をどうするかとか机の上をどう工夫するかとか朝に何を食うかとかの話だ。ある機械がぽんぽんぽんぽんアイデアを生産してくれるわけではない。パソコンもロボットも役に立たない。アイデアはいつだって頭を持つ人間が難産するものだ。つうことは、僕たちはずっと難産しなければならないらしい。(しかも、その難産の結果はおおかた会社に取られる。それでも、アイデアを採用されたらうれしいものですけど、けれども、そういう話ではない)。

稼ぐために、生き残るために必要な統制の程度を左右するのは、「技術」だ。「技術」があればファシズムは要らない。「技術」がなければファシズムが要る。どこに共通するものをおくか。思想まで共通させなければ、生き残れないのか。技術だけ共通させれば、生き残れるのか。それは程度の問題だ。

いくらファシズムがいやだ、統制は嫌いだ、といっても、技術がなければどうしようもない。そして、いまは「技術」の革新のための技術が求められるのだ。つまり、組合を起業した僕たちも「アイデアを生み出す技術」を体得せねばならない。僕たちは(ある程度の規模まで)拡大成長しなればならない。「技術」を革新しなければならない。そうでなければ、組合員を増やせないからだ。

僕たちは拡大成長しなければならない。
おいおいおいおいおい、ちょっと待て。お前はオルタナティブ派じゃなかったのか?拡大成長を幻想と断じ、そこからの脱却を目指すのではなかったか?

まったくその通りだ。
だが、それにもかかわらず、僕たちは拡大し成長しなければならない。

なぜか?

職を創出しなければならないからだ。(雇用ではない。)

専門性のある人間が市場を開拓し、専門性のない人間がそれを支える。その人数を徐々に徐々に多くしなければならない。

いや、「しなければならない」というのは嘘だ。
四五人で(あうんも最初はそうだったそうだ)、ちまちまと、だがのびやかに生きていてもいい。それはたとえ、二三人しか専門性のない人々を雇えなかったとしても、とてもすごいことだ。みなが制度(構造)的に争いを強いられ他人を殺しながら生きている時代に、そのなかにおいて二三人でも制度(構造)的に手を差し伸べられるというのはものすごいことだ。

だが、僕はやっぱり企業組合あうんのすごさを見ているし、企業組合が力をつければいろいろなことができるんじゃないかと思っているし、物欲はそうでもないが名誉欲的には欲張りなので拡大成長し
たいんですよ。

じゃあ、一般企業と企業組合の違いはなんなんだ、と。
一般企業の拡大成長と企業組合の拡大成長は、いったい何が違うんだ?

それは、やはり人ではないでしょうか。人というか、人数。あるいは、組合員の必要(needs)。

一般企業は(あたりまえだけど)、自分たちの取り分を多くし給料を増やすために、利潤のありそうなところに進出する。そのために人を雇う。ただし、できるだけ少なく。

企業組合は(難しいけれど)、自分たちの取り分が多くなっても給料がすごく高くなることはない。でも、ともに働く組合員が増える。利潤ではなく、(潜在的に)働きたいと思っている人の職を創るために、生活を維持できるくらいは稼げそうなところに進出する。

これが企業組合の原理原則ではないだろうか。

p.s.1
最近の若者には専門性がない。なぜだろうか。
ひとつは、僕たちの親らへんからいろいろなものをお金で買って済ませるようになったので、料理や裁縫、家具の修理など身の回りのことをしなくなったことにより能力がなくなってしまった、ということ。(僕なんかもそのひとりで、そのせいで唯一能力を発揮できた言語力が高まったのかも)。
もうひとつは、専門性を獲得する前に非正規労働者になることで、職業的な専門性を得ることができないということ。専門性のあることは正社員が(残業して)やっちゃって、非正規に任せられるのは簡単な仕事だけ。

p.s.2
予備校のひげもじゃの白髪の先生は1968年の学生運動のことを「ぼろぼろに負けた」と言ってた。
その彼の言葉でいくつか心に残っているのがある。
たとえば、「俺たちは人<社会じゃなく、人>社会とまではいかなくても、人=社会であるような世界を創ろうとしたんだ」ということだ。それに対して僕は授業の後に「人=社会になるための理論もないのに、いったい何をやろうとしてたんだ」と批判を加えたが、まさかその「人=社会になるための理論」を六年後の自分が書こうとしているとは夢にも思ってなかった。
その先生が最後に残した言葉は、「これからはマルクスイスラムの時代だ」。なんというか。さすが1968世代というべきか。

暗い未来について

さっき同じ世代の友人と次の土曜日の企画の話をしていた。数日前に雑談する中で、未来について語る機会がないなということで意見が一致し、「暗い未来を考える会」というものをやってみようじゃないかということになったのだ。(ほんとにやるよ)

その友人の未来は明るいらしい。明るい未来しか想像できないらしい。だから、「暗い未来」ちゅうのがよくわからんそうだ。「小峰くんも自分の未来は明るいと思ってるでしょ?」と。

いやー、どうなんでしょうねー。

暗いっしょ。どうしようもなく暗いっしょ。だって、年を取っていくんだよ。老いていくんだよ。年上からの数少ない妥当な批判は、「オルタナティブって若いうちだからできるんだよね」とか。あとキツかったのは、文学フリマでスキマハウスについて40歳くらいの人に話したら「なんかなつかしいですねー」って。これは効いた。ちょっと待って、過去のものみたいにしないでって。

何が問題か? 活力だ。そのコミュニティの活力だ。
力で押し切ってるんだよな、オルタナティブって。

たしかに、このままでいい、ひとりでいい、子どももいなくていいという人はあまりこの問題を考えなくていい。ひとりだ、なんとか生きていける。このまま老いて、力は減退していくが、それでもこのまま楽しく歌いながら踊りながら生きてはいける。それはほんとうにとてもいい人生だ。

でも、僕は生きる苦しみを味わいたい。このままでいるというのは、いまと同じような楽しみや苦しみの延長をこの先も味わい続けるということだ。でも、僕はもう少し異なる苦しみを味わいたい。結婚、事実婚、出産(してもらう)となると、他人とどうしようもなく関わることになる。そこでは独り身では感じることのできない喜びと苦しみがあるのだろう。日々減退していく自分の力と、日々増していく他人の切り離せなさが生きる苦しみを生み出すならば、僕はわりとそれを望んでもいる。

昨日も引用したけれど、「私の望むものは/生きる喜びではなく/生きる苦しみなのだ」。

その生きる苦しみを味わうために僕はシェアハウスをしているのかもしれない。結婚・出産(してもらう)ことが許されない非正規では、苦しみを味わうことさえできない。だから、なんとかしようと思う。しかも、僕は欲張りなので正規として就職し、みんなと同じように苦しんでみんなと同じように楽していくよりも、非正規として自らの力に賭け、先例があまりないところから自らの人生を切り開く喜びと苦しみを得たい。そこでは、互いに協力し合って生きていくことが重要なのだ。そのように協力関係を組織していく過程での軋轢もまた生きる苦しみだ。

コミュニティの活力は老いるからなくなる。けれど、同時にひとがいなくなるからなくなるということもある。オルタナティブ派の構成員はおおよそ二つに大別できる。社会に「順応できなくはない人」と社会に「順応できない人」だ。残酷だけど、ほんとうのことだ。そして、活力のある「順応できなくはない人」は、いずれ頑張って順応してどこかに飛んで行ってしまう。それを「順応できない人」は裏切りだと感じるかもしれないが、違う。それは「必然」だ。その「必然」によってオルタナティブ派は活力を失っていく。

んじゃ、どうするか? いまのところ、起業する、という選択肢がある。つまり、活力のある「順応できなくはない人」の生活を維持し、その活力を発揮できる場所、「順応できない人」の生活を維持し、そこで自分自身には価値があるのだと再認できるような職場をつくる。

今回はちょっと長いなー。でも、もう少し頑張ろう。もう一時四十分だけど。深夜テンションでジムビーム飲まなきゃ、こんな暗い文章なんて書けねえよな。

これから話すことは、この夏に研修に行かせてもらった「企業組合あうん」で学んだことなんだけど、実は僕の出身学科である「臨床哲学」とものすごく関係がある。まず、臨床哲学の話から。

ついさっき、友人たちと話していて、やっぱり問題はオッサンなんだと再認識した。もう友人の職場のオッサンどもがひどいらしいのだ。「お前の心の病なんて、うちで働いていれば治る」ってさ。もう、すごく恵まれて育ってきたんだねえ。自分の土地に自分の店、その上、家業ときたか。(僕もすごく恵まれてるんだけどね)

オッサンというと、この社会を動かしている上の世代のことだ。若者を人間と思わず、自分の考えを押し付け他人の人生を勝手に決めつける人々。オルタナティブ派のやつはだいたいオッサンが嫌いだ。何が嫌いかというと、人の話を聴かないなんだ。そんでもって、「お前はこうすべきだ」とかわけのわからん助言をしてくるし「お前はここが足りない」とか決めつけてくる。人の話を聴かずに、自分の経験や考えから、他人を決めつける。そういう己を含めた人間に対する敬意を失った人々を僕はオッサンと呼ぶ。ジェンダー・年齢は問わない。

臨床哲学は、ある意味、哲学の脱オッサン化を目指す運動だった。鷲田の『「聴く」ことの力』の冒頭付近にはこういう言葉がある。

「哲学これまでしゃべりすぎてきた……」(p16文庫版)

そして、「〈聴く〉こととしての哲学の可能性について」(p15文庫版)を考えていく。そこから、他人がぽつりぽつりとしゃべり始める、その瞬間を追っていく。まず、自分がしゃべるのではなく、相手がどのようなことを考え感じ話すのか、聴く。

他人の話を聴くなかで、私たちは変わっていく。そこが〈臨床〉だ。

「〈臨床〉とは、ある他者の前に身を置くことによって、そのホスピタブルな関係のなかでじぶん自身もまた変えられるような経験の場面というふうに、いまやわたしたちは〈臨床〉の規定をさらにつけくわえることができる」

「ある他者の前に身を置くことによって」「じぶん自身もまた変えられるような経験」。ここがポイントだ。とてつもなくポイントだ。聴くことでじぶんを変える用意があること、準備しておくこと、覚悟しておくこと、その心構えがあるかないかでオッサンかどうかが決まる。

このような変容しあうという関係は人と人との間で、ということになっているが、人と組織の間で、ということになってもいいだろう。つまり、人が組織に合わせるのだけではなく、組織がその人その人に応じて変容していくということが、あってもいいだろう。(大企業が幹部候補にのみ、しばしば彼らの特徴に応じるように)

従来のように、ある決められた仕事があって、それに対応できないやつはクビを切る。そういうこりこりに固まった組織では、人は誰とでも取り換えできる、交換可能な存在となる。人に対して「ここにいるのはお前じゃなくてもいい」と告げることをレヴィナスは人間への「根源的な不敬」と呼んだ。決められた仕事に自らのこころとからだを捻じ曲げて適応しようとする歯車は悲惨だ。

そのようなこりこりに固まっていないような、やわらかい組織というものを僕は想像することができる。なぜなら、そのような組織を実際に東京で見たからだ。リサイクルショップ「企業組合あうん」である。日雇い労働者、ニートネカフェ難民、支援者、各々の特徴に合わせて、各々が仕事をする。老いて現場に入れなくなると、みんなのメシをつくる。話すのが苦手ならば店舗ではなく引き払いの現場に入る。そうやって、個人個人に応じて互いが互いに仕事を譲りながら、一人だけが入っても集団はその形を変えていく。そういうやわらかい組織は、「決められた仕事がこなせるか、こなせないか」で判断する組織とは異なる。

人間は社会の歯車であることが問題なのではない。社会の歯車であることは糧を得るためには必要であり、ときにはそのことが喜びにもなるのだ。問題なのは、社会がこちこちに固まっていて、人間という歯車に一方的に変化を求めてくることである。そうではないけない。人間が自らを生かすために社会を用いるなら、その人間という歯車の特徴に応じて社会も変わるべきだ。

ここまではわかっている。これからもっと考えなければならないことがたくさんある。

このようなやわらかい組織はひとつの理想だ。ただの理想に過ぎない。だが、理想とはひとつの視点でもある。その理想から現実を見ることができる。というよりも、理想を持たない者は視点を持たず、それゆえに現実に対して盲目であるという。

オルタナティブ派ってなんやねん?

僕は共有してあまり消費しないオルタナティブな生き方を目指すとか言ってて、んじゃ、オルタナティブって何なのかって話なんですが、オルタナティブって要するに少数派ってことなんですよね(意味は違うけどさ)。

昨日世代の違う友人に「これからもオルタナティブは主流派になることはないでしょうね」と言われて、僕も「そうですね」って答えました。

その友人が語るには「経済を拡大成長しなければならぬという幻想が強すぎるから、あなたみたいな生き方を志向する人は主流派にはなれないだろう。やはり拡大幻想になびく人が多いだろう」と。
僕も「そうですね、少なくとも百年くらいはなびくでしょうね」と。

それでも地球の資源は有限で、いずれ拡大幻想になびくような生活は破綻し、変化せざるをえなくなる。いま、オルタナティブを目指す人は、いくら「社会変革だ。革命だ」といってもそんな即効性はなく、むしろ遠い遠い崩壊への予行練習している。という側面を持つ。(社会変革はもっと政治の領域に関わるものです)。

拡大幻想派のせいで、地球が悲鳴をあげて、物価が高くなったり災害が生じたりして生活が成り立たなくなったとき、さて人類が滅亡するのか、オルタナティブな生活への移行を果たすのかはわかりません。ひたすら予行をつづけたオルタナティブ派のささやかな成果が少しは実ればいいですけどね。

しかし、オルタナティブ派は、別に将来の地球とか人類のためにやってるわけではおそらくありません。拡大幻想派の「幻想」と地球の市場・資源が有限であるという「現実」の乖離が進行する中で、「ちょっとやってらんねえな(どうせ南海大震災とかでみんな死ぬんだろ←これは冗談ですか?)」と思った人たちが、別の生活の文脈を編もうとしている。そういう活動を広くオルタナティブと呼ぶ。

いやー、酔ってきた。

偏見を最大限にあげていうけれど、オルタナティブ派は基本的に学校とか会社とかに生きづらさを感じている人が多いと思う(端的にいうとスクールカーストが低かったり、いじめられたり)。つまり、会社などに順応できない人が多い。(だからといって、弱いわけではない)。そういう人たちはいまも昔もいる。

といっても、昔は「正社員」しかなかったし、会社に我慢して入れば生活もそこそこ維持できたので、そこに入った。自分のこころとからだを無理くり捻じ曲げて順応すれば会社になじめばいろいろOKだった。(しかも、たぶん会社もいろいろな人にもっと寛容だったはず。だって、なじめる人もなじめない人もみんな一緒に働くのだもの)。

いまは「正規」と「非正規」がある。やむを得ない事情で「非正規」雇用に甘んじる人がいる。でも、(僕なんかもそうだが)順応できなかった過去の学校や仕事の経験に基づき、あえて「非正規」に走る人もいる。自分のこころやからだを捻じ曲げて会社に入るとして、さて、会社に入ることにそれだけの価値があるかどうかと思い込みで疑ってしまう。ちゃんと会社に入れば自分のスキルは上がるし、それだけの価値があるというのはたしかだけれど、逆に言えば昔と異なり、その次の転職のためにスキルを上げるくらいの価値しかなくなったように僕には見える。(それは大事な生存戦略だけど)

しかも、順応できない(と自分で思っている)人はこぞって「非正規」に行き、順応できる人が「正規」にいくんだったら、そりゃ順応できない人は「非正規」にいくだろう。なんせ順応できる人々ばかりの「正規」はやりにくそうだ。こうやって、会社の寛容さは減っていく。つまり、会社には順応できる人だけの寛容さの低い組織になってしまう。(昔は変な奴もいっぱい会社にいて、それでも「国を豊かにする」という旗印の下、一緒に仕事をしていったはずなんだ)。

オルタナティブはそういう順応できない人が年を取ってジリ貧になっていく過程であり、「ちゃんと正規で生きていればなあ」という風な嘆きへの道でもある(僕はすでに嘆いているし、将来嘆くことは決定している)。オルタナティブ周辺にいる順応できなくはない人間の多くはモラトリアムとしてオルタナティブを活用し、最終的に「正規」で就職していくだろう。それに対して順応できない人は「裏切り」を感じるかもしれないが、こんなものは裏切りでもなんでもない。「必然」だ。

その「必然」をためらいながらも一蹴してオルタナティブな生き方に賭けるには強くなければならず、それは一種の才能だ。心の中に地獄を持っていなければできない。心意気的には「一度は死んだ身」くらいのノリ。それに加えて「なんだかんだ生きていけるでしょ」くらいの能力。この二つがいる。新しく生活の文脈を編もうとする人々にいる二つ。

結論。何が言いたいかというと、拡大幻想派が「現実」を見ないがゆえに地球は崩壊していくだろう。その崩壊に備えているのがオルタナティブ派である。(オルタナティブ派は「いや、私たちが世界を変えるのだ!」というかもしれないが、抜本的に変えたいなら政治をやるべきだ)。

でも、オルタナティブ派は別に地球の崩壊とか考えていなくて、単純に社会からはみ出てしながら生きているだけだ。その選んだ生き方がたまたま将来、地球崩壊の備えになっているだけだ。

そんで、はみ出しても楽しく生きるくらいのことはしていいはずだ、という全人類の確信がオルタナティブ派を後押しする。生きていく、生活をしていく。生活するうえでは、いろいろな問題が生じるだろう。解決していかなければならない。苦しみだ。だが、「誰かの他人の問題」に対処しているのではなく、「私たちが生きていくための問題」に対処しているならば、そういう苦しみならば、僕は耐えれる(と思う)。

これは岡林信康の歌詞を参考にして書いています。
彼は一番では

「私たちの望むものは
生きる苦しみではなく
私たちの望むものは
生きる喜びなのだ」と歌うけど、

二番では

「私たちの望むものは
生きる喜びではなく
私たちの望むものは
生きる苦しみなのだ」

と歌うのです。

最高やで。

【スキマハウスの入居者募集】

【スキマハウスの入居者募集】
いきなりですが、スキマハウス存亡の危機です。
まじで人がいません。
11月前後から定住者だった中村さんが職場の都合で引っ越します。
そこで一部屋空くわけですが、どなたか入居してくれる人はいませんか?
月々支払う金額は、33750円+光熱費-カンパ
です。ひろいキッチンとか風呂とか、部屋も広いし、とにかく広いです。部屋は二階なので、雑音なども気になりません。
ぜひ、ぜひ、ぜひ興味のある人は連絡をください!!
お待ちしています。

スキマ事業(仮)計画 私案

【スキマ事業(仮)計画 私案】

マルクス主義では「人間が創り出したものによって、人間が苦しめられること」を「疎外」と呼びます。
その「疎外」のひとつ(単身者の孤立・非正規の貧困)に対するために、スキマハウスは作られました。

そして、これからしようと考えていることが下のリンクに書いてあります。

https://www.dropbox.com/…/%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%9E%E4%BA…

「こみねー、シェアハウスつくってどうするんだよ?」
「こみねー、ずっとその調子でいくつもりかよ?」
「こみねー、そもそもスキマハウスってなんなんだよ」

っていわれるんでねー(笑)。

ところで、この案を友人のS氏の語った後の会話を書いておきます。

小峰「あのー、難しいと不可能のあいだには、果てしない隔たりがあるじゃないですか…この案は難しいですかね?不可能ですかね?」
S氏「いや、難しいやろ」
小峰「そうですかねー」
S氏「うん、困難なだけ。極めて困難であるにすぎない」

極めて困難であるにすぎない、ですって!
極めて困難であるにすぎない、ですって!!!!