スキマハウス (小峰の個人ブログになりそう)

大阪のシェアハウス、スキマハウス!!!! 社会運動が幅を利かせてきたけど、あくまでフリースペースです。なんだかんだいって、いろいろな人がいます。石橋から曽根に移りました。住所は豊中市原田元町1-15-4 連絡先はcococooperative@gmail.com

【哲学文献まとめるよ!】 カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』

【哲学文献まとめるよ!】
 
第一章 第二節 精神の絶対的形式の歴史的終結という構想
 
 前節では、世界史と精神史がフランス革命において完成し終わるということを見た。
 本節では、その完成と終結が、どのように精神の形式(芸術、宗教、哲学)のあり方を規定するのか述べている。
 まず、芸術について。芸術は、芸術の外の不運な出来事によって終わるのではなく、芸術の進展が芸術を終わらせるのだ。内面的なほの暗い部分がすべて外部に表現されつくされ、人々も芸術にとうとう関心を失ってしまうというのが、芸術の終わりという事態なのだ。もし私たちが芸術が持っている「世界への見方の本質的な部分」をもう一度取り上げたいという欲求を持つのは、それはたとえばセルバンテスが『ドン・キホーテにおいて騎士道に逆らおうとしたときなど、その「世界への見方の本質的な部分」に抵抗し、逆らおうとするときだけなのだ。
 だが、もはやヘーゲルの時代にあっては、長い歴史の中で教養という批判的反省能力が形成されたので、芸術の迫力を生み出す形式が相対化されている。人々はすでに何もかも知っているのだ。「ホメロスソフォクレスも、ダンテもシェークスピアも現れることはありえない。「かくも荘重に歌われ、かくも自由に語り出されたことどもは、すでに語り出されてしまった。歌われた素材、この素材を観たり、受け入れたりする仕方、これらはすべて歌われてしまったのである」」。しかも、芸術は無意味化されており、「聖画を見て父なる神、キリスト、マリアが威厳にふさわしく完璧に描かれていると感じるかもしれない。しかし、いかに強くそう思おうとも、われわれは、そうした像の前に跪くことはもはやないのだ」。
 だが、事態は芸術への人々の関心がなくなったということに終わらない。「芸術という形式そのものが、精神の最高の欲求であることを停止したのである。芸術はわれわれにとってもはや、真理が現実に存在するための最高のあり方ではなくなってしまったのだ」。重要なのは、(力が働く)現在である。カトリックなどの過ぎ去った古い世界観を習得しても無駄であり、むしろ芸術は自らを乗り越えていって、特定の形式や内容へのとらわれを捨て去っていくなかで、終結目的)へと至るのである。そして、それを体現する人間は自分が馴 染む一切のものを、自由な芸術の対象としうるのである。
 次に宗教について。宗教も終わってしまった。なぜなら、宗教もまた芸術と同様に精神が住まう場所ではなくなったからだ。ローマ末期に、(宗教をつかさどる)理性が私利私益と私法に堕落し、宗教的・政治的生活がなくなってしまった。「このような時代の個人というのは、普遍的なもの(政治や社会全般のありよう)は、なすがままに放っておき、自分の利益の事だけ考えるようになる」。残るのは、道徳的な見方、すなわち一人一人の意見であって、内実がない。そのような時代には、信仰を概念化(哲学化)することが求められている。なぜなら、宗教を守るべき人々がキリスト教の真理を「道徳的な動機」や「歴史的観点」からだけ論じるようになってしまい、一意見に終わっているからだ。聖職者は普遍的なものを再興するかたちで概念化することもないので、民衆を教育することができないのだ。その代りに、哲学が真理を司るのである。
 芸術と同様に、宗教にも批判的反省(哲学)が侵入してきた。この批判的反省は最後の最後まで遂行される。この反省を前にして宗教は自己の正しさを証明する必要に迫られるのだ。そして、芸術は芸術哲学、宗教は宗教哲学となった。「こうして哲学において、芸術と宗教が持つ二つの側面、つまり芸術という客観性と、宗教という主観性が統一されることになるのだ」。芸術は外的感覚性を失うが、それによって、思想という最高の客観性を持つことになる。一方、宗教は思考という主観性に純化される。それが哲学なのだ。

【哲学文献まとめるよ!】

まとめる文献:カール・レーヴィットヘーゲルからニーチェへ』

目標:ヘーゲルからヘーゲル左派、そしてマルクスキルケゴール)へと続く哲学史の流れを理解すること。

日時:18/4/7

 

 今回は、カール・レーヴィット著の『ヘーゲルからニーチェへ』という本のうち、第一章「ヘーゲルにおける世界史と精神史の完成――歴史の終結」をまとめます。この章は、ヘーゲル左派やマルクスの思考の基盤となるところです。(以下引用はすべてレーヴィット

 

  • 基礎概念としての「世界精神」

ヘーゲルにとって哲学の歴史は、世界の動きを横目にみて進む、世界とは無縁な別のできごとではない」とレーヴィットはこの文章を始める。要するに、哲学の歴史と世界の歴史は並行し重なり合っているということだ。では、どういうところに共通点があるのだろうか。ヘーゲルは「世界精神としての絶対者」が両者の歴史には貫かれていると述べている。ヘーゲルの中心概念だが、ここでの「世界精神」とはなんだろうか。『ヘーゲル辞典』を見てみよう。『辞典』によると「世界精神」とは「論理、自然、精神の体系全体を貫く根源的な実在」であり、「世界のうちに自己を現す」とされているものだそうである。しかし、よくわからない。が、ヘーゲルにとって、哲学の歴史と世界の歴史は「世界精神としての絶対者」が自らを実現していく過程だということはわかりそうだ。もう少し先に進もう。

 レーヴィットは、この「世界精神」が「歴史にそなわる、いかなる条件もない絶対的な力」だとしている。そして、おそらくこの「力」はさまざまな矛盾や対立を乗り越えて統一していく力なのだ。なぜ、そんなことが言えるのか。レーヴィットは矛盾や対立などと言う言葉はまだ述べていないのに。しかし、「世界精神」は、いかなる民族においても「生の全体性」を表現しているとレーヴィットは述べており、『辞典』によるとその「全体性」なるものは次のようなものだからだ。ヘーゲルにおいては、「矛盾と対立はある「ひとつのもの」(絶対者)の異なる現れ」である。したがって、全体性とは、「部分や区分を内包した全体で、対立や矛盾の統一」のことである。要するに、「世界精神」はさまざまな歴史の中で生じる矛盾や対立を統一していく「力」でもあるのだ。

 この「世界精神」という「力」の「弁証法的運動」は歴史の中で生きている。ここでの「弁証的運動」とは『辞典』によれば、「実在する対立・矛盾を原動力として変化・発展する事物の論理」に基づく「運動」のことであり、その「運動」の行き着く先は「絶対知」である。  

この「絶対知」とは、『辞典』によると、「存在と思惟の一致」のことであり、それはどんな状態かと言うと、『辞典』によると、「存在と思惟の一致」は、「実体と主体の一致」と同じである、という。「実体と主体の一致」とは、自分が生きる世界をただすでにあったもの・与えられたもの(実体)ととらえずに、さまざまな人々の活動のなかで発展していくものとして把握し(主体)、しかも世界を普遍性(人権宣言など!)に即して形成していくことである(実体と主体の一致)。要するに、「世界精神」は人々の種々の活動によってさまざまな矛盾や対立を乗り越えて発展し、最終的に「普遍性に即して形成」された世界へといきつくのだ。それはたとえば、フランス革命の人権宣言などによって果たされたと見る。

そして、どのようにして「世界精神」は「絶対知」に行きつくかというと、(外面的には人々の様々な活動ということになっているが、)内面的には「かつて存在した精神のあり方をすべて想起すること」によってである。つまり、「たえず前進する中で自己を外部に表現しながら、また自己自身の由来・過去を想起するのが、この精神のあり方」なのだ。しかし、その発展も決して直線的なものではない。円環状になっており、「この運動の終結は運動の始まりの完成」なのであり、これが何を意味するのかと言うと、「終末における終結」である。

 

ヘーゲルは歴史の中で「世界精神」は発展するというのだから、もちろん歴史哲学がある。ヘーゲルの歴史哲学において重要なのは、「東洋における歴史の始まりであり、西洋におけるその終結である」。ヘーゲルの中では、まず中国、インド、ペルシャで精神(歴史)は始まり、ペルシャに対するギリシアの勝利を経て、ローマ帝国において継続し、最後は西洋北部のキリスト教的=ゲルマン的諸国家において終結するのだ。この歴史の運動の中で、「精神は激しい戦いを通じて、自由へと教育されてきた」。つまり、「オリエントは、たったひとりだけが自由であると認めていたし、そう考えている。ギリシア及びローマの世界では、幾人かが自由であり、ゲルマン世界は、すべての人が自由であることを知っている」(ヘーゲル)。

 キリスト教の神こそが、はじめて真に「精神」であり、人間なのだ。「これによって、神的なるものと人間的なものとの統一性がようやく意識にもたらされ、神の似姿としての人間に宥和が生じた」。フランス革命とは、万人が自由であるとしたキリスト教の原理を世俗化したものであり、キリスト教を理性化したものである。しかし、これは厭うべきことではない。「キリスト教の起源を実定的に見えるかたちに実現することこそ、起源の真の展開なのである」。

ヘーゲルから見れば、教皇の権威から人々を解き放ったのがルターだった。そしてその前提に基づいてフランス革命がおこる。そして、このフランス革命のできごとにおいて、歴史の哲学が終結する。もちろん、さまざまな出来事もあるだろうし戦争もあるだろう。だが、フランス革命の〈概念〉を記述したヘーゲルによって、〈概念〉の歴史は終結した。

ウェブマガジン「ココココ」の宣言文への違和感

ウェブマガジン「ココココ」の宣言文への違和感】

「右下っぽさ」という言葉をウェブマガジン「ここここ」という団体が広めようとしているそうです。ライターは、教育関係のNPOコワーキングスペース・ゲストハウスを運営されている人々など。やりたいことはわかるんですが…このサイトの宣言文はいまの左派界隈の現状をくっきり映し出してます。

まず、「右下っぽい」人とは誰か?
・「形だけの慣例や時代に合わない考え方は好きじゃない。世の中もっと合理的かつ楽しく変化していく方がいいと思う。」
・「競争して負けた後は自己責任、みたいな社会はあまり好きじゃない。もっと共生的に、いろんな人が生きやすい社会の方がいいと思う。」
という人たちで、最近増えていると分析されています。これはわかります。

ほんで、「右上」の人は変化には対応するけど競争型の「グローバル」な企業戦士。ここはどうでもいい。

問題は「左下」の人の記述で、次のようなもの。
「共生やセーフティネットは大事だけど、昔ながらの方法は変えない」という人を左下だとすれば、町内会や昔ながらの社会運動などの、ムラ社会的な雰囲気はここに近いのかもしれません。」

「改革志向だけど、昔ながらの方法は変えない」社会運動。おじいちゃんが集まっているデモとかですよね。たしかにSEALDsが出てきたときも批判対象になりました。そういう社会運動は「ムラ社会的」であると言われています。

しかし、僕はここに待ったをかけたい!
そもそも、この世界で「ムラ社会的」ではない団体なんてあるのか?と。つまり、右下っぽい団体や人々は、(社会運動側から見れば)NPOやゲストハウス好きで集まっている「ムラ社会」ではないのでしょうか、という問題提起です。

アイドル好きもムラ社会を作り、文学好きもムラ社会を作り、ラップ好きもムラ社会を作ります。そして、そのなかの無数のムラ社会の中に「右下っぽさ」好きのムラ社会もあるのです。

もちろん、アイドルムラにも文学ムラにもラップムラにも「改革+共生」を目指す右下っぽい人はたくさんいるでしょう。しかし、そういう右下っぽい人は、「右下っぽい」ムラには入ってこないはず。

ウェブマガジンここここは、かなり現状認識を自分たちの有利な方向にゆがめてしまったようです。本当には、ムラVSムラなのに、ムラ(社会運動)VSオープン(ここここ)だと勘違いしてしまったわけです。

だからこそ、昨今の課題は、ムラ同士をいかにつなぐか、ということになってきています(東浩紀などの仕事)。社会運動ムラと「右下っぽさ」ムラをどうつなぎ、社会運動ムラと文学ムラをどうつなぎ、社会運動ムラとラップムラをどうつなぐかが問題となっています。

そして、それらをつなぐのは、ラップ好きで社会運動を担っている人、アイドル好きで社会運動を担っている人、「右下っぽさ」好きで社会運動を担っている人であると考えます。つまり、ふたつのムラが重なるところ、ベン図のようなものを作れる個人です。その個人がラップムラの人やアイドルムラの人を社会運動ムラに引き入れます。

正直に言うと、僕は「社会運動ムラ」をかなり特権視しています。特権視というのは、そのムラ人が偉いというわけではなくて、「社会運動ムラは拡大していかなければならない」と思っているからです。だから、すべてのムラに社会運動ムラは接点を持たねばならないと思っています。逆に言えば、すべてのムラは社会運動ムラに接点を持つ必要があると思っているのです。もちろん、「右下っぽさ」ムラもです。

なぜ、特権視するかと言うと、数ある改革の流れの中でも、社会運動は「対立」を重視するからです。
競争にさらされたり低賃金だったりという現在の抑圧に対して、唯一対抗する姿勢を示しているのは、社会運動ムラだけだからです。

たしかに、ゲストハウスもコワーキングスペースも人を集めてつながりを作るのには成功するでしょう。「右下っぽさ」ムラの人は、人を集めて「共生」の雰囲気を作ることはできます。そして、それはすごくよいことです
しかし、集まってどうするのか?そこでつながって話してよかったね、だけで終わりなのか?それとも、生活を助ける協力体制を作るのか?

協力体制をつくると、自然にこの社会のあかんところが見えてくるはず。しかも、そのあかんところは制度だったりして、あかんところを変えるには「政治」的な「対立」が必要になってくるはず。じゃあ、その「政治」を動かすのは何か?――もちろん、「清き一票」ではありません。社会運動です。

※なお、僕は、社会運動が現在のやり方をまったく変える必要がないとは思っていません。ただ、それでも「昔ながらの社会運動」を「ムラ社会的」だと言って一刀両断し遠ざける風潮にはいら立ちを覚えるのです。
http://kokokoko.net/about/

【12月から】スキマハウス新入居者【募集!!】

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11月いっぱいで、定住者のひとりが退去してしまうので、12月からの新入居者を募集します!
家賃(33750円)+共益費(3500円?入居の際に説明します)+光熱費という感じです。礼金2万円ほど(交渉可)※家賃は全体13万5千円÷人数で変動します。
夢の二階建て一軒家です。石橋駅徒歩7分。日当たり良好。ベランダに屋根がついているので、雨の日もすぐに洗濯物を乾きます。洗濯機、冷蔵庫あり。皿、お箸あり。来ればすぐに暮らせます。キッチンも大きく、トイレも二つあるし、バスルームはセパレートです。家賃33750円でこの質はなかなかない!誰か入りませんかー?
もし住みたい人がいれば、ぜひ小峰teltel-challenge@ezweb.ne.jpまで連絡をください!

スキマハウス新入居者募集!!(10月~)

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「やりたいことをやる」批判――乃木坂46『サイレントマジョリティー』を例に

ぼくが言うのもすごい「お前のことやろ」とツッコミをくらいそうなんですが、最近むくむくと、「やりたいことをやるんだ!」という論調に再び疑問が出てきました。

単純に言うと、「やりたいことをやる」という考えは、(ぼくの)親も言うし、(ワタミの社長みたいな)経営者も言うし、(秋元康みたいな)金持ちも言うし、(いろんな)フリーターも言うし、(栗原康みたいな)左翼系の学者も言うし、(正社員をのぞいた)みんなが言うことです。だから、おかしいのです。みんな言っていることというのは、このおかしな現状を作り上げている考え方なので、だから、基本的に疑ってかかるべきだとぼくは考えています。

さて、人間には、当然のことながら、「やりたいこと」の他に、「やらなければならないこと」もあります。そして、「やらなければならないこと」はほとんど(父の権威が失墜するとともに)なくなってしまいました。しかし、「やらなければならないこと」を意識しないと、なかなかひとは協力もできないだろうと思います。

詳しく述べていきましょう。
まず、「やりたいこと」を推し進めることの危険性についてです。

たとえば、乃木坂46の『サイレント・マジョリティー』という曲(好きでたまに聴くのですが)には、次のような歌詞があります。

「君は君らしく生きて行く自由があるんだ.大人たちに支配されるな」

「君は君らしくやりたいことをやるだけさ/One of themに成り下がるな/ここにいる人の数だけ道はある/自分の夢の方に歩けばいい」

ここにある通り、「君が君らしくやりたいことをやる」とき、その「やりたいこと」は基本的にひとりで行うものであるように思います。というのも、「やりたいこと」は人それぞれ、けっこう違うからです。もちろん、「やりたいこと」が似ているとしても、なかなか同じとはなりません。難しく言うと、欲望が拡散しているわけです。「君が君らしく生きて行く」と、みんなバラバラになってしまいます。

これは「夢」の実現についてもバラバラ志向であるという点では基本的に同じで、乃木坂46の歌詞には「夢を見ることは時には孤独にもなる」そうです。

このように、個人がバラバラになっているということで、一番喜ぶのは上位層です。たとえば、バラバラ志向をもとにしていると、経営者なら労働組合ができにくいし、政権側なら市民運動が盛り上がりにくいのです。経営者や政府が一番いやがるのは、固まって群れることです。だから、経営者も支配者もみな「夢」を高らかに歌い上げます。「夢」を追っている限り、基本的に、ひとは同じような境遇の他人を蹴落とすことはしても、群れて協力して歯向かってくることはめったにありません。

だから、ぼくは「やりたいことをやるんだ!」という論調になかなか両手を挙げて賛同はできないわけです。というのも、その考え方はひとりひとりがバラバラになっているこの現状を肯定することになりかねないからです。

そこで、ぼくはいつも「やらなければならないこともあるんじゃないのか?」と思います。(言い訳がましくなりますが、ぼくはこれでも、けっこう「やらなければならないこと」で動いている方なんですよ、実は)。

「やらなければならないこと」というのは、昔だったら子ども作るとか結婚するとかです。いまだったら社会運動をするとか、そんなことです。そうやって無理やり「やらなければならないことをやる」ためには、親とかパートナーとか同僚とかと協力しなければならないわけです。(仕事もそうですよね)。(ほんで「自由に生きていいよ」って親から言われたら、一部しか結婚しなくなって子どもも産まなくなった、というわけです)。

といっても、ぼくは「やらなければならないことをみんなやろう!」と言いたいわけではありません。そんなことを言っても、「やらなければならないこと」をやる人などいないわけですから。

ただ、やはり、本来、団結を重視する左翼系の知識人(栗原康の有名なフレーズは「やりたいことしかやりたくない」です。)も付和雷同して「やりたいことをやろう!」と大合唱している光景はどうにかしないとなあ、と思うわけです。そのような「やりたいことをやろう!」という風潮は、彼ら彼女らが真っ向から立ち向かわなければならない考え方なのですから。。。

東浩紀『観光客の哲学』から見る、シェアハウスについての考察――「人間」と「動物」のちがいから

東浩紀『観光客の哲学』から見るシェアハウス】
 
こんにちは。
 
最近、東浩紀さんの『観光客の哲学』という本を読んだのですが、非常に示唆されるところがありました。つまり、彼のことばを使って、僕がやろうとしたこと(開放型シェアハウス)が、簡単に言いあわらせるかもしれないと思ったのです。
 
一言で言ってしまうと、僕がやろうとしたこと(シェアハウスをやっていた先輩たちの受け売りなのですが)は、
 
「政治的への関心や公共性に関心を持つ人々を増やすために、まず一緒に住んだり食べたり飲んだりするところからはじめようと思った」ということです。
 
こういうことを企図しました。東さんのことばで語って、この企図を哲学の文脈とつなげてみましょう。そうすることで、もう少しいろいろなところと接点を持つことができるかもしれません。
 
東さんは「ひと」を語るにあたって’(p109らへん)、「活動」と「労働」ということばを用いています。まず、このふたつのことばの意味を書いてみます。
 
「活動」というのは、公共につながる言葉です。つまり、演説したり他人と議論したり市民運動にいったりといった行為です。ここでは、誰が演説しているか、誰が話しているか、ということが大切になります。
 
「労働」というのは、わたくしにつながる言葉です。つまり、コンビニやファーストフード店のバイトのような、誰がやっても同じ人数と時間だけで数えられる賃労働のことです。ここでは誰がやっても同じというのが特徴になります。
 
これを言い換えると、「活動」は誰がするかということが重要なので、顔や名前を持つ「人間」が行うそうです。一方、「労働」は誰がやっても同じで、また「労働」の結果もらえる賃金で「消費」を行うので、いずれも名前や顔は必要とはいえず「動物」が行うものだそうです。要するに、「活動」をするひとは「人間」だけど、働いて食べたり飲んだりする「労働」と「消費」をするだけのひとは「動物」と同じだ、ということです。
 
そして、昨今の人文学は「人間になることが重要だ!」「政治(活動)をやれ!」と言っているけれども、「労働」「消費」、すなわち「動物」を軽視していないか?だから、こういう働いて食べて寝る「動物」の人々の存在をちゃんと考えないといけない(哲学の歴史のなかにつなげないといけない)と言っています。
 
つまり、有名な哲学者である「ハンナアレントもカールシュミットもみなグローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている」のです。「二〇世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置付けた。そしてその到来を拒否しようとした。しかし、そのような拒否がグローバリズムが進む二十一世紀で通用するわけがない。」(p109~p110)
 
要するに、「民主主義を考えよう」とか「憲法を考えよう」とかいう言葉を言っても、だいたい多くの人はなんとも思わないんだけど、でも、そういう人たちのことを考えようよってことなんです。
 
シェアハウスは、その初期から、あまり稼げない学生や若年労働者が、その負担分を分割するために共同して住む、ということを目指して作られました。つまり、「労働」者があんまり稼げないけど「消費」したいから、家賃分や光熱費を減らそうと思って立ち上げたものなんです。すなわち、それは、「動物」の群れなんですね。
 
しかし、ここがおもしろいところなんですが、人間は一緒に住んだり食べたり飲んだりしていると、「話をする」ものなんです。この「話をする」というのは、「誰とするか」が問題となります。すなわち、顔や名前を持つ「人間」として話をするのです。政治の議論もするかもしれませんし、キッチンやリビングなど公共スペースの使い方の使い方は、やはり行わないといけない。(これは「小さな政治」と呼ばれています。『家族を超える社会学』久保田論文)
 
食事は基本的に自分の欲求を満たすことです。東さんは次のように言っています。「物の欲求はひとを孤独な満足に閉じ込めるだけだ」。話をすることで、ひととつながれます。「活動=言語のコミュニケーションはひとつひとつをつなぐことができる」。しかし、話すためには、一堂に会することが必要になる。そのために、「消費」に、すなわち、ひとの「動物」的なところに訴えかけるのです。
 
哲学カフェ――哲学の議論をするためには、お茶が必要だ――という言葉はまさに、ひとが「人間」になるには、「動物」的なところに訴えかけるとよい。そうすると、ひとは「人間」になりやすい、ということを直観的に言い表した言葉であると思います。
 
以上です。ありがというございました。