スキマハウス 新入居者募集!!(10月~)

大阪大学のふもと、石橋にスキマ寮を作りました。定住者だけでなく、誰でも使えるシェアハウスです。 いつでも来て、寝たり食べたり飲んだり話したりしてください。イベントや読書会あるいは、秘密結社の儀式など、なんにでもお貸しできます。興味がある方はいまそこでただちにお問い合わせください。(お茶しよっか。)連絡をもらえれば、誰にでも鍵のありかをお教えします。勝手に入っちゃってください。ishibashisharenokai@gmail.comまで連絡を!〒563-0032 大阪府池田市石橋1-21-10

スキマハウス新入居者募集!!(10月~)

スキマハウス新入居者募集!!

九月いっぱいで、定住者のひとりが退去してしまうので、九月下旬~十月頃に新入居者を募集します!

家賃(33750円)+共益費(3500円?入居の際に説明します)+光熱費という感じです。礼金2万円ほど(交渉可)

夢の二階建て一軒家です。石橋駅徒歩7分。日当たり良好。ベランダに屋根がついているので、雨の日もすぐに洗濯物を乾きます。洗濯機、冷蔵庫あり。皿、お箸あり。来ればすぐに暮らせます。キッチンも大きく、トイレも二つあるし、バスルームはセパレートです。家賃33750円でこの質はなかなかない!誰か入りませんかー?

もし住みたい人がいれば、ぜひ小峰teltel-challenge@ezweb.ne.jpまで連絡をください!

「やりたいことをやる」批判――乃木坂46『サイレントマジョリティー』を例に

ぼくが言うのもすごい「お前のことやろ」とツッコミをくらいそうなんですが、最近むくむくと、「やりたいことをやるんだ!」という論調に再び疑問が出てきました。

単純に言うと、「やりたいことをやる」という考えは、(ぼくの)親も言うし、(ワタミの社長みたいな)経営者も言うし、(秋元康みたいな)金持ちも言うし、(いろんな)フリーターも言うし、(栗原康みたいな)左翼系の学者も言うし、(正社員をのぞいた)みんなが言うことです。だから、おかしいのです。みんな言っていることというのは、このおかしな現状を作り上げている考え方なので、だから、基本的に疑ってかかるべきだとぼくは考えています。

さて、人間には、当然のことながら、「やりたいこと」の他に、「やらなければならないこと」もあります。そして、「やらなければならないこと」はほとんど(父の権威が失墜するとともに)なくなってしまいました。しかし、「やらなければならないこと」を意識しないと、なかなかひとは協力もできないだろうと思います。

詳しく述べていきましょう。
まず、「やりたいこと」を推し進めることの危険性についてです。

たとえば、乃木坂46の『サイレント・マジョリティー』という曲(好きでたまに聴くのですが)には、次のような歌詞があります。

「君は君らしく生きて行く自由があるんだ.大人たちに支配されるな」

「君は君らしくやりたいことをやるだけさ/One of themに成り下がるな/ここにいる人の数だけ道はある/自分の夢の方に歩けばいい」

ここにある通り、「君が君らしくやりたいことをやる」とき、その「やりたいこと」は基本的にひとりで行うものであるように思います。というのも、「やりたいこと」は人それぞれ、けっこう違うからです。もちろん、「やりたいこと」が似ているとしても、なかなか同じとはなりません。難しく言うと、欲望が拡散しているわけです。「君が君らしく生きて行く」と、みんなバラバラになってしまいます。

これは「夢」の実現についてもバラバラ志向であるという点では基本的に同じで、乃木坂46の歌詞には「夢を見ることは時には孤独にもなる」そうです。

このように、個人がバラバラになっているということで、一番喜ぶのは上位層です。たとえば、バラバラ志向をもとにしていると、経営者なら労働組合ができにくいし、政権側なら市民運動が盛り上がりにくいのです。経営者や政府が一番いやがるのは、固まって群れることです。だから、経営者も支配者もみな「夢」を高らかに歌い上げます。「夢」を追っている限り、基本的に、ひとは同じような境遇の他人を蹴落とすことはしても、群れて協力して歯向かってくることはめったにありません。

だから、ぼくは「やりたいことをやるんだ!」という論調になかなか両手を挙げて賛同はできないわけです。というのも、その考え方はひとりひとりがバラバラになっているこの現状を肯定することになりかねないからです。

そこで、ぼくはいつも「やらなければならないこともあるんじゃないのか?」と思います。(言い訳がましくなりますが、ぼくはこれでも、けっこう「やらなければならないこと」で動いている方なんですよ、実は)。

「やらなければならないこと」というのは、昔だったら子ども作るとか結婚するとかです。いまだったら社会運動をするとか、そんなことです。そうやって無理やり「やらなければならないことをやる」ためには、親とかパートナーとか同僚とかと協力しなければならないわけです。(仕事もそうですよね)。(ほんで「自由に生きていいよ」って親から言われたら、一部しか結婚しなくなって子どもも産まなくなった、というわけです)。

といっても、ぼくは「やらなければならないことをみんなやろう!」と言いたいわけではありません。そんなことを言っても、「やらなければならないこと」をやる人などいないわけですから。

ただ、やはり、本来、団結を重視する左翼系の知識人(栗原康の有名なフレーズは「やりたいことしかやりたくない」です。)も付和雷同して「やりたいことをやろう!」と大合唱している光景はどうにかしないとなあ、と思うわけです。そのような「やりたいことをやろう!」という風潮は、彼ら彼女らが真っ向から立ち向かわなければならない考え方なのですから。。。

東浩紀『観光客の哲学』から見る、シェアハウスについての考察――「人間」と「動物」のちがいから

東浩紀『観光客の哲学』から見るシェアハウス】
 
こんにちは。
 
最近、東浩紀さんの『観光客の哲学』という本を読んだのですが、非常に示唆されるところがありました。つまり、彼のことばを使って、僕がやろうとしたこと(開放型シェアハウス)が、簡単に言いあわらせるかもしれないと思ったのです。
 
一言で言ってしまうと、僕がやろうとしたこと(シェアハウスをやっていた先輩たちの受け売りなのですが)は、
 
「政治的への関心や公共性に関心を持つ人々を増やすために、まず一緒に住んだり食べたり飲んだりするところからはじめようと思った」ということです。
 
こういうことを企図しました。東さんのことばで語って、この企図を哲学の文脈とつなげてみましょう。そうすることで、もう少しいろいろなところと接点を持つことができるかもしれません。
 
東さんは「ひと」を語るにあたって’(p109らへん)、「活動」と「労働」ということばを用いています。まず、このふたつのことばの意味を書いてみます。
 
「活動」というのは、公共につながる言葉です。つまり、演説したり他人と議論したり市民運動にいったりといった行為です。ここでは、誰が演説しているか、誰が話しているか、ということが大切になります。
 
「労働」というのは、わたくしにつながる言葉です。つまり、コンビニやファーストフード店のバイトのような、誰がやっても同じ人数と時間だけで数えられる賃労働のことです。ここでは誰がやっても同じというのが特徴になります。
 
これを言い換えると、「活動」は誰がするかということが重要なので、顔や名前を持つ「人間」が行うそうです。一方、「労働」は誰がやっても同じで、また「労働」の結果もらえる賃金で「消費」を行うので、いずれも名前や顔は必要とはいえず「動物」が行うものだそうです。要するに、「活動」をするひとは「人間」だけど、働いて食べたり飲んだりする「労働」と「消費」をするだけのひとは「動物」と同じだ、ということです。
 
そして、昨今の人文学は「人間になることが重要だ!」「政治(活動)をやれ!」と言っているけれども、「労働」「消費」、すなわち「動物」を軽視していないか?だから、こういう働いて食べて寝る「動物」の人々の存在をちゃんと考えないといけない(哲学の歴史のなかにつなげないといけない)と言っています。
 
つまり、有名な哲学者である「ハンナアレントもカールシュミットもみなグローバリズムが可能にする快楽と幸福のユートピアを拒否するためにこそ、人文学の伝統を用いようとしている」のです。「二〇世紀の人文学は、大衆社会の実現と動物的消費者の出現を「人間ではないもの」の到来と位置付けた。そしてその到来を拒否しようとした。しかし、そのような拒否がグローバリズムが進む二十一世紀で通用するわけがない。」(p109~p110)
 
要するに、「民主主義を考えよう」とか「憲法を考えよう」とかいう言葉を言っても、だいたい多くの人はなんとも思わないんだけど、でも、そういう人たちのことを考えようよってことなんです。
 
シェアハウスは、その初期から、あまり稼げない学生や若年労働者が、その負担分を分割するために共同して住む、ということを目指して作られました。つまり、「労働」者があんまり稼げないけど「消費」したいから、家賃分や光熱費を減らそうと思って立ち上げたものなんです。すなわち、それは、「動物」の群れなんですね。
 
しかし、ここがおもしろいところなんですが、人間は一緒に住んだり食べたり飲んだりしていると、「話をする」ものなんです。この「話をする」というのは、「誰とするか」が問題となります。すなわち、顔や名前を持つ「人間」として話をするのです。政治の議論もするかもしれませんし、キッチンやリビングなど公共スペースの使い方の使い方は、やはり行わないといけない。(これは「小さな政治」と呼ばれています。『家族を超える社会学』久保田論文)
 
食事は基本的に自分の欲求を満たすことです。東さんは次のように言っています。「物の欲求はひとを孤独な満足に閉じ込めるだけだ」。話をすることで、ひととつながれます。「活動=言語のコミュニケーションはひとつひとつをつなぐことができる」。しかし、話すためには、一堂に会することが必要になる。そのために、「消費」に、すなわち、ひとの「動物」的なところに訴えかけるのです。
 
哲学カフェ――哲学の議論をするためには、お茶が必要だ――という言葉はまさに、ひとが「人間」になるには、「動物」的なところに訴えかけるとよい。そうすると、ひとは「人間」になりやすい、ということを直観的に言い表した言葉であると思います。
 
以上です。ありがというございました。

NPOや社会企業と同じく 労働組合もまた、なぜ重要なのか (質疑と応答)

先の投稿(NPOや社会企業と同じく
労働組合もまた、なぜ重要なのか)にいくつか質問をいただきましたので、返答します。

疑問1.その労働組合を運用していくのは誰か?――原則として、労働者と同時に、失業者もまた運営に入ります。というのも、労働者の賃金は失業者の数で決まるからです。失業者が多ければ多いほど、「他にも替えが効く」ため、労働者の賃金も下がります。

疑問2.また労働組合を運用していくお金はどこ(誰)が出すのか?。――組合員です。しかし、さまざまな活動で企業からお金を保障してもらえることをめざします。(組合保障)

疑問3.労働者は本当に組合を必要としているのか?。――必要としているように仕向ける必要があります。

疑問4.労働組合はなぜ表舞台から姿を消したのか?――諸外国では、労働組合はまだある程度のプレゼンスを持っています。ふつうにストライキもおこっています。(また、日本でも関西生コン労組は10年代に大規模なストライキを起こしています。)では、どうして日本の労働組合がダメになったのかというと、日本型経営・雇用に問題があるからです。日本型企業は終身雇用制だったので、その企業だけで使える技能を持つ集団が「社員」でした。なので、その技能集団が集まって企業ごとに組合を作る「企業別組合」が主流となってしまいました。(たとえば、日本全国電鉄労組(産業別労組)ではなくて、阪急労組、阪神労組、JR労組と企業ごとに組合があります)。諸外国では、終身雇用制などではなかったため、電鉄会社なら電鉄会社すべてに通用するような技能を持つことが求められました。なので、その技能集団が集まって、産業ごとに労働組合を作りました。
しかし、日本型経営・雇用が崩壊するにつれて、企業別労働組合もその有効性を失っていきました。企業別組合の前提となる終身雇用・年功序列という前提がなくなったからです。非正規社員が大量に雇用され、特定の会社で育てられた技能集団(正社員)で組織された企業別労働組合が、特に技能や所属意識を持たない彼らをカヴァーできない/しない事が問題になりました。こうして、労働組合非正規労働者の貧困に(そして、正社員の過労に)対する有効策を打ち出せなくなりました。貧困(働かせない)と過労(働かせすぎ)はセットですから。
このようななかで、労働組合はもはや「なにそれ?」というレベルまでプレゼンスを下げてしまいました。

疑問5.労働組合は働けている人には力になるが、働けていないや働けなくなった人の力になれるのか?――難しい質問です。実際、疑問1.で書いたように、労働組合は失業者も組織しなければなりません。しかし、失業者とは「働けるけど働いていない人」であり、「働けない人」ではありません。その点では、どのようなユニオンも労働組合も「働けるけど働いていない人」は組織しようとはしても、「働けない人」を組織することはあまりありません。なので、そのような課題は別の組織にゆだねるしかないのが現状です。
しかし、「働けない人」が働けない環境であることも問題であると同時に、「働けない人」が働けるようになって、そこの労働条件が悪いというのもまた問題です。ですから、「働けない人」が「働ける」ようになったときに、労働組合は存在感を発揮できます。「働けない→働けるけど貧乏→働けるし安定」というラインのうちの「働けない→働けるけど貧乏」は別の組織でなければできませんが、「働けるけど貧乏→働けるし安定」の部分をつくるのは、労働組合しかできません。

どうしてNPO・社会企業ではなく労働組合もまた重要であるのか?

こんにちは。

 

突然ですが、私はある労働組合で働いています。

ストライキも行うほど強力な労組です。

そこで、今回は、1990年代以降に流行った「NPO」、あるいは2010年代以降に流行った「社会企業」ではなく、昔から左翼・革新の重要な組織であった(しかし、最近は顧みられることの少ない)「労働組合」の重要性を述べたいと思います。

それは、私がNPOや社会企業を目指さなかった理由でもあります。

 

まず、社会企業とは何か、ということから話しましょう。この組織は単純に言うと、「社会問題の解決を通じて利潤を得る」企業のことです。(有給スタッフのいるNPOも同じようなものです。NPOとは、原則的には組織で得た利益を組織の構成員に分配せず、他の人に分配する組織のことです。)

 

自分の生活の糧を社会活動をしながら得ることができるのですから、これは魅力的な組織ですよね。社会貢献がしたいという多くの人は、一度は考えたことがあるのではないでしょうか。しかし、問題もあると思います。それはこの組織がどのように続いていくのか(糧を得るのか)、という問題です。

 

生活の糧を得るための方法は三つあります。

ひとつめは、稼ぐこと。

ふたつめは、寄付をもらうこと。

みっつめは、助成金をもらうこと。

 

まず、稼ぐためにはお金があるところにアプローチしなければなりません。稼ぐことで生活の糧を得るためには、中間層や富裕層をターゲットにしなければならないのです。そうすると、ほんとうに困っている貧困層に問題解決の手が伸びないということがあります。

 

もちろん、寄付や助成金で活動していれば、貧困層にも手を伸ばすことはできるでしょう。しかし、これから日本が貧しくなっていくときに、そのような「善意」にばかり頼っていてうまくいくのだろうか、とも思ってしまいます。加えて、一部の人が多くのお金を持っていると、「善意の方向性」、すなわち「どこに寄付するか」ということも偏りが出てくるのではないでしょうか(たとえば、日本財団)。みんながある程度のお金を稼げて、各々が自分の好きなところに寄付もできるという形が望ましいと考えます。

 

次に、このような社会企業やNPOは「社会問題があるから、そこに対処する」というかたちをとります。しかし、私からすれば、それは後手後手に回っているという印象を受けます。日本全体が貧困化していて、富裕層や中間層の寄付を使って、その貧困を緩和しようというのが昨今の風潮ですが、しかし、それでいいのかと思います。そもそも日本全体が貧困化しているという状況を食い止める必要があると思います。このような一部の人が富裕となり、多くの人が貧困化していくシステムを変えなければならないと思うのです。

 

現在のNPOや社会企業に文句があるとすれば、私から言わせれば、彼ら彼女らは後進国(アフリカや東南アジア)に対する先進国(欧米日)の態度に似ているということです。先進国は後進国からコーヒー豆などを安く仕入れそれで儲けています。それでときたま気まぐれに「支援」をほどこすのです。これと同様に、日々アルバイトやパートをこき使っている富裕層や中間層(正社員層や経営者層)が貧困層(非正規層)に「自分が傷つかない程度の寄付」をするのです。

 

しかし、このような現状を変えるためには、賃上げや労働条件の改善が不可欠です。

そして、そのような改善はやはり労働組合が国家や企業に圧力をかけてこそ、満足に達成できるものであると考えます。労働組合は、働いている人々みんなで団結して労働条件をよくしようという組織です。そのような組織があってはじめて、人々の生活はある程度の質を保証されるのだと思います。

 

NPOや社会企業と労働組合の違いは何かというと、起業に対する「団体交渉権」があるかないかです。団体交渉権とは、労働組合が交渉を申し込んだ場合、経営者がその交渉に応える義務があるとする権利です。この交渉を通じて、「この解雇は不当ではないのか」とか「もっと賃金を上げろ」とか「社会保障をちゃんとしろ」とか言えるのです。

もちろん、NPOも社会企業もそのような交渉権はありません。

 

企業は過重労働や低賃金などで労働者の生活を切り詰め、自分が儲かるようにしたいのです。その下げられようとしている生活の質を維持するための組織です。このような組織を非正規労働者も正規労働者も自分たちで作らなければならないと考えます。自分たちで作らなければ、誰も作ってくれないからです。

 

ここが一番の違いです。NPOや社会企業はお客さんや相談主に専門家として接し、お客さんや相談主は「お任せ」という感じですが、労働組合は「自分たちで作る」ものです。そういう「自分たちで作る」という社会の動きが、社会を変えるのだと思っています。

公民館としてシェアハウス、避難所としてのシェアハウス

こんにちは。

今回は(本格的な支援団体ではなく)開放型シェアハウスが若干貢献できる貧困対策について書かせてもらいます。

昔から、貧困で家がないというひとはいます。ホームレスや野宿者と呼ばれる人々です。そのような人々は、家がないために簡易宿やネットカフェに泊まることになる。そうすると、仕事をしてもお金がなくて、なかなか家を持てません。(連帯保証人もいないし)。

たとえば、湯浅誠はホームレスに宿と仕事を提供するとしたエム・クルーという貧困ビジネスが新聞に「社会企業」として紹介されている事例を『反貧困』で取り上げています。このエム・クルーは「社会企業」として取り上げられていますが、中間マージンが多く、決して利用者の経済状態は改善しません。

 

エム・クルーはそのような「社会的企業」ではない。むしろそれは、ホームレス状態にまで追い込まれたフリーターたちの弱みに付け込んで食い物にし、しかもその実態を「フリーターに夢を」といった幻想で糊装する偽看板の商法に他ならない。こうしたビジネスを、私は「社会的企業」の対極にあるものとして「貧困ビジネス」と呼んでいる」(『反貧困』)

 

このように、一度家をなくすと宿泊費などがかかってしまい、お金がたまらない仕組みになっているのです。しかも、ネットカフェ難民などは目に見えませんから、支援してくれる人もいません。窮乏化し、孤立しているのです。

 

このような問題意識が念頭にあったうえで、私は開放型シェアハウスを呼びかけました。

誰でもリビングなどの共有空間に入れる開放型シェアハウス(スキマハウス)は、基本的に誰でも無料で泊まることができます。つまり、宿泊費がかからないということです。料理などもキッチンがあるので、自炊で安く済みます。また、そこに「住んでいる」ので、就職で必要な履歴書の住所なども提供できます。

 

要するに、わりと、ネットカフェ難民やホームレスの人にとって「住居を提供」できるという点で、好条件な施設なのです。

 

そこで、問題は、どうやってこの「避難所としてのシェアハウス」の機能を周りに知らせるかということでしょう。この開放された「住居」があることを、誰も知らなければ、避難所としては何の役にも立ちません。とはいっても、ホームレス、特に私が同世代の人間として意識せざるを得ないネットカフェ難民の人は、路上にいるわけでもないし、身なりもこざっぱりとしているので、訴えかける対象が明らかであるというわけではありません。

 

私が最も期待するのは、「友達の友達」をつたって、このシェアハウスの「避難所」としての機能が伝わることです。というよりも、「友達の友達」としてNPOや支援団体にネットカフェ難民の人をつなげるという形以外に、どこにいるかわからないネットカフェ難民を支援することはできないと思います。

 

(もちろん、本格的な支援団体やNPOに電話し相談するというかたちで、向こうから助けを求めに来ることはあるでしょう。しかし、シェアハウスは共同で生活を営むことを目的として作られたのであり、貧困を防ぐためにつくられたものではありません。)

 

そこで、このシェアハウスが「公民館」としての機能を持つ必要が出てくるのです。つまり、さまざまな人々が来て、サークルを作ったりして、つながる。そこでできた「友達」の「友達」が貧困に陥ったときに、その貧困を緩和する場所があることを伝える。つながりが貧困を防ぐとはよく聞きますが、やはりつながりだけではなく、場所があることが重要です。

 

多くの人に開放型シェアハウスの「避難所」としての機能を知ってもらい、その使命を果たすためには、そしてネットカフェ難民に(たとえ一部でも)来てもらうには、開放型シェアハウスにいろんな人が来て、うわさを広めてもらう必要があります。そのために、開放型シェアハウスの「公民館」としての機能は「避難所」としての機能とセットなのです。

 

以上が、開放型シェアハウスが貢献できる貧困対策の一例であると考えます。

協同組合から労働組合へ

協同組合から労働組合

 

 こんにちは、小峰です。今回は、私が去年の八月頃に主張していたことと、現在主張していることの「くいちがい」を説明したいと思います。

 まず最初に、私は去年の八月頃にどのようなことを主張していたのでしょうか。私が当時主張していたのは、「協同組合」です。特にリサイクルショップの協同組合を目指していました。

 では、なぜそれを目指していたのか。当時の問題意識を述べていきます。そのために、まず協同組合とは何なのか説明しましょう。

 協同組合(日本の法人格では「企業組合」)とは、労働者が出資して組織を作りその経営権を持つ営利組織のことです。経営権を持っているため、その組織がどのようなことを行うのか一部の経営者や株主ではなく、労働者みんなで決めるというものです。また、会計も公開されており、賃金の分配も労働者全体で決めるため、搾取(経営者などがその人の独断で、他の人より多くの配分をもらうこと)はできません。もちろん、労働者=経営者なので従業員の解雇もできません。私は、東京で、このようなかたちで運営される企業組合あうんというリサイクルショップを見てきました。

 このような協同組合に心惹かれていった理由は、当時の問題意識が「雇われにくい」人の職の創出だったからです。企業組合あうんは、もともと、日雇い労働者、ネカフェ難民、ホームレス、引きこもりだった人々が働いていました。リサイクルショップは肉体労働で作業が単純なため、さまざまな人が働けるのです。そして、彼ら彼女らが協同で働いている姿は一種の理想形でもありました。

 しかし、一方で現実的な話をすると、さまざまな業界と同様に、リサイクルショップ業界もまた競争が激しく、商品やサービスの値下げ合戦が行われていました。このような状況では、たとえ事業が成り立ったとしても、値下げ競争に巻き込まれるのは確実です。それは、協同組合を作ったとしても、少しましなだけで、賃金や待遇という点で、他のリサイクルショップ企業とあまり変わらないということを意味しました。

 また、リサイクルショップをやろうにも、さまざまな初期投資が必要であり、私一人の財力で立ち上げるのは、なかなか難しいと考えました。加えて、スキマハウスにはリサイクルショップを経験した人は少ないので、ノウハウがありませんでした。このような次第で、リサイクルショップ案は現在のところ採用できないという答えに至りました。

 次に、塾をやろうかという話をしました。これなら、ノウハウもある程度あるし、初期投資も少なくて済むからです。しかし、ここでも値下げ合戦に追い込まれて、待遇も賃金も他企業とあまり変わらないようになると思いました。他の企業と同じか、少しましなくらいなら、私が協同組合をやる必要はないと思いました、

 このようなことから、協同組合を作る前にまず値下げ合戦をやめさせなければならないと考えました。

 そして、勉強の結果、値下げ競争をやめさせ、従業員の賃金や待遇をよくするには、産業別の労働組合が必要であるという結論に至りました。特に、共同雇用というものに感心しました。ある企業がつぶれても、他の同業の企業が雇ってくれると、労働組合が企業側に約束させるシステムです。これによって、労働者は企業の経営者とじっくり闘うことができました。企業ごとに組合がある一般的な企業では、その企業がつぶれると組合の労働者も解雇となるので、なかなか労働組合が闘えないのです。それは協同組合も同じです。ただ、共同雇用というシステムがあると、闘うことができるのです。このような組合を広げていけば、職場の状況はもっと改善するはずだと考えました。

 最後ですが、「産業民主主義」という言葉があります。企業の意思決定を、話し合いや交渉で労働者が決めようというものです。それにはふたつのかたちがあります。協同組合型と労働組合型です。協同組合型は、労働者みんなで経営方針や賃金の配分などを決めます。労働組合型は、経営者と労働組合の話し合いで、それらを決定します。私はこのうち、協同組合型については、先ほども述べたように、協同組合型の産業民主主義は結局、企業ごとに組合がある企業と同様に、自分たちの組織を守ることを最優先させてしまうという違和感を持ちます。一方、労働組合型は、自分たちの組織を守ることを最優先としなくていいので、より強く経営者との交渉に臨めるのです。